常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

義仲寺

2019年12月06日 | 日記
芭蕉が死に際して、自分の亡骸を葬る場所として指定しtのは、大津市馬場の義仲寺としたことについて、先日、安東次男の解釈を紹介した。たしかに、そういう見方もあろうが、私の心に残る疑問はいまひとつとけない。私の畏友に、国文学者の志村有弘氏がいる。志村氏からたくさん著作を送ってもらっている。その中に『日本人の死生観』という好著がある。このなかに、木曽義仲と今井四郎兼平の最後の様子が書かれている。

平家物語がやや美化して、物語にしたものだが、その最後は主従の死への覚悟がみごとに描かれている。義仲に付き従った今井兼平なる人物は、義仲の父義賢が悪源太義平に討たれたとき、2歳の義仲は木曽の中原兼遠に預けられた。兼遠には兼光、兼平、巴御前ら子がいた。義仲が幼少期にともに育った乳兄弟たちが、義仲の最後の戦いに付き従ったのである。大軍の中飛び込んで、戦いぬくうち、義仲は兼平の行方が分からなくなる。

女ながら剛の戦士であった巴を落ち延びさせ、義仲は一人に落ちていった。瀬田で死にものぐるいで戦っていた兼平も、義仲の行方を求めて戦列を離れる。こうして二人は大津の打出の浜で行き会った。ここで二人は巻いていた旗を開いて翻す。それを見つけた敵兵は、3百、5百と二人を取り巻く。「ひと戦しよう」と二人は、敵陣に切り込んでいく。

義仲を林のなかへやり、そこで自刃させようと、兼平は最後の力を振り絞って敵の攻撃を退ける。次々と放たれる矢も、厚い鎧を通せずに、さすがの敵も攻めあぐねている。一方、義仲は馬を走らせる途中で、池にはまり動くことがかなわなくなる。そこへ押しかける石田の郎党。追いつき、さしもの義仲の首を刎ねた。「天下の鬼神、木曽殿を、石田の次郎為久が討取ったり」と大音声で叫べば、それを聞いた兼平は「今は誰をかばおうぞ。御覧あれ、日本一の剛の者の自刃する手本。」こう叫んで、兼平は、太刀の先を口に咥え、馬から真っ逆さまに飛び落ちて、太刀に貫かれて最期を遂げた。

義仲を死へと追いやったのは、同じ源氏の義経であった。法皇さへ取り囲んで、敗走させた義仲であったが、最後は京都の民衆に背かれ、同族の武士たちから討手を差し向けられる身となった。芭蕉は義仲にも、義経にも、同情の思いを寄せている。それは武将への共感というものではなく、志し半ばで運命的な死を遂げて行ったものへの哀切の情であったろう。それは、同じように、志し半ば旅の中で死を迎える自分の身を重ねたものであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする