常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

与謝野晶子

2019年12月18日 | 
与謝野晶子は、1876年(明治11年)12月に、大阪府堺に生れた。堺は商業の街として知られるが、晶子の家は駿河屋の屋号の菓子屋の老舗であった。異母に二人の姉と同母の2男2女の6人兄弟で、にぎやかな家庭環境で育った。しかし、晶子は、無口で、「駿河屋の娘は、店番しながら物語本ばかり読んでいる」と非難めいた評判が立った。利発な子で、店番の銭勘定もしっかりとして、親の本棚にあった難しい古典や漢籍を、かじりつくようにして読んだ。

父は男の子には思う存分に勉強させ、職業も自由に選ばさせたが、晶子や女の子たちが本を読んでいると、苦々しい顔で、当時流行った島崎藤村の詩集などを見つけると、あからさまに「得体の知れぬ若造のものなど」と非難した。晶子の生い立ちは、父から押さえつけられることに反発するように、文学を読み歌を作る道へと進んで行った。

与謝野鉄幹が主宰する明星に、歌を投稿するようになる。関西の方面でも勢力を伸ばそうとして、鉄幹は講演に大阪を訪れた。鉄幹の容貌をみてあこがれを持った晶子は、毎号投稿を増やし、歌も急速に上達していった。同じ鉄幹に憧れた歌人に、少し年下の山川登美子がいた。二人は、競うように明星に投稿したが、その内容は師を慕う恋の歌であった。

なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな 晶子

与謝野鉄幹には妻子があった。しかし、妻とは性格が合わず別居状態で、晶子や登美子の好意に心を傾け、こんな詩を作っている。

妻をめとらば才たけて
顔うるわしくなさけある
友をえらばば書を読んで
六部の侠気、四分の熱

書も読まず、歌の才能もない妻に飽き足らず、晶子らに心を寄せた歌と読むことができる。しかし、別れる決断が遅れ、晶子の存在に気付いた妻が待ち受ける家へ、家出同然に飛び込んで行ったのは晶子であった。

その後の紆余曲折は省こう。夫婦になった晶子と鉄幹は、明星を盛りあげ、日本の花壇をリードしていく。その力の源泉は、晶子の歌の力によるところが大であった。
上京して2ヶ月後、晶子は鉄幹の助力を得て、歌集「みだれ髪」を上梓する。晶子の太い髪は、油をつけると固くなるので、何もつけずに結い上げた。そのために、髪のみだれが見られてたが、それをよしとした鉄幹の命名である。

その子二十歳櫛に流るる黒髪のおごりの春の美しきかな 晶子

晶子の恋の歌集と言っていい。その奔放な歌は、和歌の歴史を改めるものであった。賛否両論があるなかで、晶子に憧れる女流の歌人が、各地で生まれた。ロマンチシズムの歌である。これは鉄幹が目指したものだが、その集大成を成し遂げたのは晶子であったと言ってよい。

日露戦争を経て、歌壇の流れは大きな変化を見せた。星やスミレ、夢をテーマにロマン主義の歌に人々は飽きを感じ始めた。正岡子規、伊藤左千夫、島木赤彦、齋藤茂吉らが、写生をときリアリズムを追求した歌が、次第勢力を伸ばし、鉄幹の明星は明治41年に100号をもって廃刊に追い込まれた。鉄幹の歌論は時代遅れなものとして人々から忘れ去られていった。そのなかでも、晶子の人気は衰えず、夫婦は危機を迎えた。

晶子が考え出したのが、夫のヨーロッパ留学である。その金策のために、屏風に自分の歌百首を書いて売り出すというアイデアを出した。屏風のほか短冊、半切なども含めて、友人知人に売りさばいた。外国に来て、夫妻は新しい目を開いた。とくに晶子にはヨーロッパの女性が独立した人間として人生を楽しんでいる姿に感銘を受けた。

ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟我も雛罌粟 晶子 
コメント
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