昨日のウォーキングで発見したもの、クメオレ。和名では風蝶草、花びらが蝶が飛んでいるように見えるからであるらしい。コロナ太り、というのが流行語のようになっている。家にこもって、食べてばかりいる人が、この半年で体重が増えた。自分の場合は、この期間を、山登りのための筋力づくりにあてた。ストレッチとウォーキング。なかでも、3分速歩とゆっくり3分のインターバル速歩は、はっきり効果が出ている。「痩せましたね。大丈夫?」と会う人かたよく聞かれる。「貧乏でいいもの食べていないので」と答える。
考えて見れば、食べることにこだわりが無くなったような気がする。妻が作る毎日のシンプルな料理がおいしいと感じる。少し前まで、旬のもの、土地の名物などおいしものに貪欲だった。そんな時代に愛読した本がある。大河内昭爾
『味覚の文学散歩』。いま読んでも面白い本だ。取り上げた文学作品も色々だが、志賀直哉の『小僧の神様』は懐かしい。少年の頃、この小説を読んでいるが、自分が寿司が好きになった原点はこの作品にあるような気がする。
ある秤に奉公した小僧の寿司体験の話である。番頭たちが、立ち食い寿司を談義しているのを聞いて、一度寿司を食べてみたい気がしていた。往復の電車賃80銭を握って商品の配達に出かけるが、その配達先が話題の寿司店の近くだった。たまらずにその店に入った小僧は割りこんでマグロの寿司を手にしようとしたが、「それ一個60銭」と言われて、帰りの電車賃ではそれに足りないことを知って、食べずに逃げるように店を出た。それを見て可哀そうと感じたおじさんがいた。ある貴族院議員である。この人が小僧の神様である。偶然、秤の買いに来た店で小僧を見つけ、その寿司屋でお腹いっぱい寿司をご馳走してくれる。志賀直哉の文章は、簡潔でどこまでも小気味いい。
「食食食」と書いて「あさめし・ひるめし・ばんめし」と読ませる雑誌に小説「料理」を書いたのは、耕治人だ。知り合いの金持ちの家に滞在して、朝、昼、晩と膳に盛り切れぬほどご馳走攻めにあった主人公は、糟糠の妻が作ってくれるシンプルな料理に思いが及ぶ。「ほんの一切れの魚、僅かな野菜の煮つけ」その食事から感じるのは、その料理に含まれている清潔で、豊かな生命であった。それを「食べれば、じかに私を養ってくれる気がした」と書いている。食べるという行為は生きている人間に必須のものだ。毎日の食事に、こんな命を支える力を、あらためて考えてみるべきである。