常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

次年子そば

2022年12月14日 | グルメ
大石田の次年子へ友人と蕎麦を食べに行った。1300円で食べ放題。ワラビの一本漬けとキクラゲ、キュウリ漬けが出て、お椀入りの蕎麦はお代わり自由。普通の蕎麦店なら1椀は盛り蕎麦1枚と見ていい。豪の者は、5杯、6杯と行くが、今日は自分と友人が3杯半、一緒の女性が2杯。辛味大根の汁が入ったツユがサッパリして食欲をそそる。数年前に来た時は1杯1000円であったが、蕎麦の風味は記憶と違っていない。食べた量も、当時とほぼ同じだ。雪のなかの山中の蕎麦店だが、平日でも10人近くの客がいた。

次年子は葉山の東北に位置し、大浦口、山内、川前から入るがいずれも峠を越える近づき難い山村である。大同2年に、秋田からお里という婦人が入村し、箕造りを伝えたという伝説がある。この技術は、狭い村のなかだけで受け継ぎ、門外不出の技術であった。箕とは、竹で編んだバスケットの形をし、ここに米の実と、付随する殻や不要な小片を中に入れ、風にあてながら振るって穀物だけを残す、選別の手作業用具だ。機械化が進んだ現代では、もう見られない懐かしい道具である。次年子のような山村で、平安の昔から連綿と受け継がれて来た箕造り。戦後の30年位まで続いたであろう。

集落のなかで箕を一家で手分けして箕を作り、稲刈り前の時期に、箕を持って農家を廻るのは男の仕事であった。農村に入ると、懇意にしている家に泊りこんで、古い箕の修理と持ってきた箕を売る。ただ、集落にだけある箕造りの技術を、他出させない約束が色々とあった。入り婿した集落の者は、箕を作るのは集落に帰ってしなければならなかった。箕と炭焼き。加えて、集落の山地を開墾して少しづつ田畑増やす。昭和の時代には、ここは40戸ほどに分家を増やしていた。箕が廃れてて、蕎麦を生業とする家ができたが、この山中まで客を呼ぶのは容易ではない。自家製の蕎麦粉と手打ち、そして食べ放題という、この地独特の蕎麦屋が口伝えに広がっていく。宮城や福島など隣県と、山形方面から、客が来るようになった。


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