ネコのミモロのJAPAN TRAVEL (Mimoro the cat:JAPAN TRAVEL)

「京都観光おもてなし大使」のライターとネコのミモロが、京都の情報や暮らし、グルメなどをご紹介。心和む雑誌のようなブログ

みんなで守ろう「二条城」の文化財。国宝・重文の修復の募金をすると、いろんな特典が。

2014-02-26 | 歴史・史跡

先日、模擬天守閣が聳える伏見桃山城へ出かけたミモロ。「やっぱり本物が見たくなっちゃた~」ということで、出掛けたのは、世界遺産でもある「二条城」です。
 
「本物は、迫力がある…」と当たり前のことに、いたく感激しています。ここには、以前、訪れたことがあります。

伏見桃山城が豊臣秀吉が築城したなら、こちらは、徳川家康の築城。慶長8年(1603)に京都御所の守護と江戸から京都にやってきたときの将軍の宿泊所として造営しました。完成したのは、三代将軍家光の時代の寛永3年(1626)。伏見城の遺構などを使って作られた、華やかな桃山文化を映しています。
「かつて戦った相手のものでも、使えるものは、使うんだ~」とミモロ。確かに、今の感覚で考えてみると、変な感じもしますが、二条城に限らず、日本全国、滅ぼした相手が使ったものを、結構再利用しています。なかでも、石垣や立派な建造物は、その例が多く、おそらく資材の調達などが簡単ではない時代、リサイクルは、経費節約のためにも必要だったのかも…。

話し変わって、家康が二条城の二の丸を完成させた後の慶長16年(1611)に、家康は、ここで、関ケ原で破った西軍の豊臣家の19歳になる秀頼と初めて会見。その際、堂々とした威厳を漂わす若き武将を見て、将来、徳川家を危険にさらすと感じ、豊臣家の滅亡を決めたと言われています。豊臣家が滅亡する大阪夏の陣は、その会見から4年後のこと。その戦いの前に、軍事会議を開いたのは、二条城です。

また、それから約250年後、最後の将軍となる徳川慶喜が、慶応3年(1867)に大政奉還を発表したのも、二条城。
日本の歴史の転換点が、この京都にあり、二条城にあるといえるかもしれません。


京都に観光に来たら、風情ある寺院や神社を訪れると共に、一度は、日本の歴史を変えた場所、この二条城へ。

大政奉還が発表された大広間のある二の丸御殿。そこには、江戸という時代を率いた徳川家の文化を物語る多くの障壁画などを見ることができます。徳川家の居城だった江戸城は、廃城され、そこは皇居で、徳川家の文化を東京では、見ることができませんから…。

さて、二条城には、国宝の建造物が二の丸御殿6棟、重要文化財の建造物が、東大手門や唐門など22棟、二の丸御殿の障壁画など美術工芸が、なんと1016面もあります。それらを維持するのは、なかなか大変なこと。常に、どこかを修復修理することに。

そのなかで、平成23年から保存修理工事を行った、二の丸御殿の南側築地塀の唐門が、平成25年8月に完成。再び美しい姿を見ることができるようになりました。
檜皮葺切妻平入りの屋根を、極彩色の彫刻が飾ります。


「あ、獅子…ストレッチしてるのかな?毛づくろいしてる子もいる」と、ミモロは、唐門の彫刻に興味津々。

この門は、寛永2年(1625)に建てられたもの。木部は、すべてケヤキ材で、漆や金箔が施され、見事な錺金具が、多用されています。

これらの重要文化財を次ぎの世代に伝えるためには、修復・修理などが欠かせません。でも、それには多額の費用が必要に…。

そこで、現在、二条城を管理する京都市は、多くの人に修復募金を呼びかけています。
それが「二条城一口城主募金」です。二の丸御殿の東側の休憩所の中に、申込み所が設置されていました。
寄付金額は、もちろんいくらでもOK。例えば1万円以上なら、1年間有効の入城証や非公開の場所や修復現場が見学できる『1日城主』になれる抽選権などの特典が。

「うー、募金に協力したいけど、ミモロのお小遣い少ないし~」と。寄付したい気持ちは十分あるのですが…。

申込み所のデスクには、絵はがきや小タオル、缶バッジなどが並んでいます。
「これなんだろ?」 牡丹や徳川家の紋章、障壁画の虎などがデザインされたを5種類のオリジナル缶バッジです。
「それは200円寄付してくださった方への記念品ですよ」と係の方。「えー200円寄付すると、これがもらえるの?」と目を輝かせます。「これなら、ミモロでも寄付できる…」とさっそく背中のリュックからお小遣いを出して、募金箱へ。
「ご寄付ありがとうございました」と言われ、缶バッジをひとつ選びます。ミモロが選んだのは、金色の牡丹の花がプリントされた赤いバッジ。
さっそく胸につけて…「どう?」と嬉しそう。

二条城に行ったら、ぜひ修復のための募金にご協力ください。「よろしくお願いします」とミモロ。

このバッジは、二条城のオリジナル。「訪れた記念に、またお土産にもいいかも…だって200円だもの…」と。500円寄付すると、絵はがきセットや小さなタオルが記念品に。
インターネットからも「二条城一口城主募金」に参加できます。でも、缶バッジなどの記念品は、二条城でのみ。

「次の時代に、素晴らしい文化財を残さなくちゃね~。みんなで二条城を守りましょう!」


*「二条城一口城主募金」の詳しい情報は、「二条城」のホームページからどうぞ…。


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「京都市学校歴史博物館」。明治維新、人材教育に力を注いだ京都の歴史を物語る博物館

2014-02-26 | 博物館・美術館


京都には、いろいろな博物館や美術館があります。四条通から御幸町通を南に下がったところにあるのが、石垣と門がなかなかりっぱな「京都市学校歴史博物館」です。
 
ハッキリ言って、かなり地味な博物館。訪れる人も多くはなさそう。ミモロも、正直、あまり期待しないで出かけました。この門は、明治8年にできた旧成徳小学校の玄関車寄せを移築したもの。京都市最古の学校建築です。

かつて開智小学校だった場所にある博物館の校庭を抜けて、展示棟へ。「かっけこしようー。よーいドン!」と、運動場を走り始めたミモロです。
入口も、昔の建物を利用しています。そばには、昔の小学校には必ずあった「二宮金次郎」の銅像。
 
二宮金次郎(尊徳)の像は、京都府図書館の脇にもありますが、中学校の修学旅行生が、その前に来て、「だれだろ?何してるの?」「読書してるんじゃない?」「きっと何かした人かも…」と話していました。知らないんだー。きっと昭和の小学生でないと、もはやわからなくなっているようです。

ちなみに二宮金次郎の像が作られたのは、明治末期で、小学校に置かれるようになったのは、大正13年に、愛知県の小学校が最初とか。以来「どんな状況でも努力し、お勉強をする」というお手本となってきました。貧しい家に生まれた金次郎は、しば刈りなどをしながらも、学問を続けたというお話から、この像が。全国の小学校に広まった、金次郎の像ですが、戦時中、金属回収で、多くの金次郎さんたちは、溶かされて武器へと変わって行きました。戦後、再び作られることは、少なくなり、現在は、なかり影が薄くなっています。

「今なら、オリンピックの葛西選手や浅田真央ちゃんの像の方が、子供たちの心に響くかも…」と思うミモロです。


さて、小学校の校舎の館内には、明治から現代まで、さまざまな教科書、教材、教具などが展示されています。
展示室内は、撮影ができないので、あしからず…。

古い小学校の校舎の雰囲気を留める階段…。
「キャー!」やはり、やると思いましたが、ミモロは、手すりを滑り台に…。よく小学生の頃、やって注意されたものです。

廊下は、木の温もりあるフローリング。窓際に続く、展示ケースには、かつて使われた瓦などが並んでいます。
  

ミモロ、なに見てるの…?木の椅子に座って、じっと見つめています。
 
京都の学校教育の歴史に関するビデオです。

さて、京都は、小学校教育に力を注いだ町。京都では、鳥羽伏見の戦いの翌年、明治2年(1869)に、全国に先駆け、町を区分けして、そこに日本初の学区制小学校である「番組小学校」を64校作ります。文部省ができるのは、明治4年(1871)ですから、それより先に、子供たちの教育に力を注いだことに。当時は、京都からの学校建設費用貸付に加え、それぞれの町の町衆が、寄りあい、学校建設の費用を集めたのです。
「あ、それで、祇園祭の大船鉾も、作れなくなっちゃたんだー」とミモロ。そう、四條町では、禁門の変で焼失した大船鉾の再建のために集めた費用を、この番組小学校の建設に当てたため、150年間、鉾を再建できなかったのです。

つまり、当時の小学校は、町衆の力でできたもの。東京遷都以来、衰えてゆく京の町を、再び栄えさせるためには、人材育成こそ大切と考えたのです。でも、当初は、寺社の敷地や寄付された土地で、運動場もなく、町の会所という感じ。そこには、警察、消防署、保健所などの機能も備えたものだったとか。この学校教育を発案し、推し進めたのが、京都府知事となる槇村正直でした。また、しばらくして学校の名前も、番号から漢字になります。

  

「京都の小学校の名前って、なんか威厳があるねー」と思うミモロ。京都の人にとっては、なんとも思わないかもしれませんが、なかなか素敵な名前です。
例えば、乾隆(けんりゅう)、待賢(たいけん)、安寧(あんねい)など、平安時代を思わせるようなネーミング。やはり、学校の名前は、番号よりも、その地域らしい名前がいいように思えます。

ちなみに、京都は、地元で生まれ育ち、ずっと同じところに住む人の割合が多く、「おじいさんも、父親も。みんな同じ小学校の卒業生…」という人も、少なくありません。引っ越しの少ない地元の人たちは、卒業して50年以上たっても、小学校のクラスメートが集まったり…。東京では、まず小学校の同窓会もむずかしいかも…。
京都の人たちの地元のつながりには、同じ小学校を卒業したということが、強く意識されているように思えます。

博物館の中には、昔の写真も多数展示されていました。
 

教科書や歴史を物語る品々が展示される常設展のほかに、企画展の会場も。3月25日まで、「青春と学校生活~戦後京都の中学・高校生活~」という、昭和の人なら、懐かしい思い出が蘇る展示が行われています。


「予想してたより、内容があって、面白かった~」とミモロ。京都出身の方には、ぜひお勧めの博物館です。

*「京都市学校歴史博物館」の詳しい情報は、ホームページで。

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