「こんな景色が見られるなんて~感激!」と呆然と立ち尽くすミモロ。
ここは、日本で一番大きな村である奈良県の最南端の「十津川村」にある「果無集落(はてなししゅうらく)」です。
宿泊した十津川村の「ホテル昴」から、歩いて約1時間。急な山道をひたすら登り到着したのは、「果無峠」へと続く尾根の道にある集落です。峠のピークは、1000メートルを超えるもので、ここは、その半ばで標高約500メートルの場所にあります。
「ここが天空の郷って言われる「果無集落」なんだ~」と感激するミモロです。
熊野古道の「小辺路」という高野山から熊野本宮大社に至る全長約70キロの道で、ここ「果無集落」まで来れば、あともう少しと思える距離になります。熊野本宮大社までの参詣道のルートはいろいろありますが、その中で最短コース。しかし、最も厳しいルートと言われます。
「なんか不思議な名前の集落だね~」と、確かにミモロならずとも思う人は多いはず。この名前の由来は諸説ありますが、果てしなく続く山の景色が見渡せるから、とか、後醍醐天皇の皇子である護良親王が、一時、追手から逃れるために、京都からここに至りますが、その追手がはてしなく迫ってきます。その心境を表現したなど、いろいろ。ともかく、ここに来ると、様々な意味で「果無」という言葉が実感できる心地になります。
「紀伊半島って大きいね~ホント、山がずっと続いてるもの…」と、ミモロは、その山々の景色に果てしないものを感じたよう。
ちなみに「護良親王って、建武の新政のために父親の後醍醐天皇を助けたにもかかわらず、後年、意見が対立して、敵対視される数奇な運命を辿った方でしょ」と、ミモロは、以前、天皇の歴史という本で知ったことを思い出します。そう、「建武の新政」の時代は、本当に複雑で、とても簡単に説明できません。でも、都から逃れた護良親王は、ここまで身を隠しつつ、20日ほどかかって至ったとの説も…。
「ミモロは京都から電車とバスで6時間で十津川村まで来て…遠いって思ってたけど、昔の人にしたら夢のようだね」と、そう歩いて至った人たちは、いかなる思いだったことでしょう。
現在、「果無集落」へは林道を利用し車で行け、駐車場もあります。「住民には、すごく便利になってるね~」もはや果無の地ではありません!
でも、やはり熊野へと続く道は、多くの人々が、それぞれ複雑な思い、満たされない思いなどを抱きつつ、歩んだ道でもあるのです。「神様や仏様におすがりしたいって思いがないと、歩く気になれないよね~」とミモロ。
さて、「果無集落」を全国的に有名にしたのが、この農家。
家の前を熊野古道の小辺路が通り、訪れる旅人は、ここで湧き水で喉を潤したそう。
「あの~どなたかいらっしゃいますか?」と縁側で声を掛けるミモロたち。でも、返事はありません。
最近まで、ここには、代々ここに住むおばあちゃまがお暮しだったのですが、現在は、町の方にいらっしゃり、息子さんたちが暮らしていると言われます。
軒には、干し柿が下がり、
奥には、シイタケの栽培が行われ、昔ながらの農家の暮らしを感じさせます。
この集落は、観光客が近年多く訪れるようになったのですが、あくまで個人の生活の場。
暮らす方々のご迷惑にならないよう、マナーをしっかり守りましょう。
さて、帰り道は、「あの険しい山道を下る自信がない…」というお友達の裕子さん。「じゃ、林道から行こうね」と、距離は長くなりますが、舗装されたなだらかな坂道を進むことに。
その途中にあるのが「めん滝」。
この辺りには、「境目滝」という、きっと地域の境目にある滝が2つあって、それぞれは「雄滝(おんたき)」と「雌滝(めんたき)」と呼ばれているよう。
「ここは、雌の滝なの?」とその姿を見つめるミモロ。
当初「めん滝」と聞いて、「お素麵のように白い滝」と思っていたミモロでした。さすが食いしん坊の発想…。
そこから、林道をさらに下ります。「こっちの道、楽ちんだね~」と途中景色を眺めながら…
でも、ホテルに戻るまでに、もう1回、「柳本橋」を渡らなくてはなりません。
すでに吊り橋にすっかり慣れたミモロ…恐々わたる裕子さんを励ましつつ、渡り切ります。
この日の午前中を「果無集落」で過ごしたミモロ達は、昼過ぎ、バスで「熊野本宮大社」へと移動します。
<ブログを見たら 金魚鉢をクリックしてね 応援よろしく!ミモロより
人気ブログランキング
ミモロの通販ショップ「ミモロショップ」はこちら
ミモロへのお問い合わせ・ご要望は、mimoro1888@gmail.comまで
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます