想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

ビーフカツ 流用

2016年01月15日 | エッセイ

 

震災6年1月15日

 CoCo壱番屋が廃棄したはずのビーフカツが、不正流用された事件が発覚した。これは、日常茶飯事に行われているという証拠みたいなもの。残念ではあるが、こういう事実はあるということを前提に我々は生活していく必要がある。

 誰が考えても不正は悪であり、人のためにならないので、やってはいけないこと。この種の出来事が明るみにでると、連続的に他の不正も表面化してくる。ということは、氷山の一角ということである。氷山はその大部分を海の中に沈めている。ピラミッド型に裾野が広いということだ。末広がりは日本人の好む言葉であるが、不正の末広がりはいけない。

 その業者はどんな思いでそんなことをやったのだろう。人には良心というものがある。それが、どこかに飛んでいってしまったとしかいいようがない。

 江戸時代の士農工商を思い出した。商の地位が低いのは、商いの世界は不正がはびこりやすい体質があるということでもある。職人は心を込めてモノを作るが商いに携わる物は、その物の持っている価値に気づきにくい。

 ただ、それを動かして利潤をえているので、よけいにそうなるのだろう。だから、商人はより良心をしっかり持っていないといけない。

 軽く考えて物を左から右に移して利潤をえるということは。簡単にできてしまうことがあるから、よけいに良心が見えづらくなるような気がする。そのへんのことをよく考えてやらないと、遠くにある幸せが見えてこない。

 未だかって流通業界で人間的にできた人の話は聞いたことがない。物作りの世界ではそのような人はたくさんいるのに、やはり流通という世界はちょっと違うような気がする。

 松下幸之助や稲森和夫等とはスピリッツが違う感じがする。彼らは物を作るという根源的なことに寝食を費やしてきた。反面、流通はある物を効率よく動かすという表面的なことに偏る傾向がある。流通業者がいないと、そのものも動いてゆかない。その流通の大切をも骨身にしみて感じていないと、どうしても、表面的な効率と利潤だけの世界になってします。何事も、根底に人間の幸せがあるだ。その方面に携わる物はより一層高い倫理観を持つ必要がある。

 私は何をやるにも、その遙か遠くに人様の幸せのためという砦があるとおもっている。経済のベクトルも最終的にはそこへ向いていかなければ、生きている意味はない。

 だから、人間は人の為に悩み、そして、成長する。今回の彼らの脳裏には算術以外何物もないようである。一生懸命やっている人たちのいい迷惑でもある。見つからなければ、いいみたいなことでやってもらっては困るのである。

 発見がCoCo壱番屋のパート従業員だと聞いている。なぜ、社員ではなかったのだろう。そのことも気になった。

 CoCo壱番屋も廃棄依頼した業者をしっかり見届ける責任があるのだろう。他に依頼すれば、それで、終わりであるという安易な経営があったという責任は少なからずあるだろう。

 その業者をしっかり精査しておつきあいしないと大変な目にあう。だから、しっかり精査しなきゃという問題でもない。世の中には悪を悪とも思わず行う人もいるのが現実であるという観点にたって考えていないと、とんだとばっちりを受けるということだ。

 

 警察が調べていくとその業者は他にも色々な不正が発覚されつつあるときく。そうだろう、たたけばどんどんほこりがでてくるようなものだ。今回の件もしっかり精査して二度と、こういう業者がでないようにしてほしいと思う。

 雪印の時でも吉兆でも同じような問題が過去に何度もあった。残念ながらこれが現実なのだ。

 要は、私たち市民がしっかりして不正を見抜くことが大切だ。正直者が馬鹿を見るということがあっては、日本人の良心が許さない。一番大切なことは信用だ。国家間にも、世間でもこれがなくなったらおかしな世の中になる。

 商いにはこの必要以上によく見せる、相手にわからなければ何でもいい、実態ではなく見てくれを大事にする傾向がある。マーケティングの世界が多分にそのような面を持ち合わせているので、よけい大変だ。その辺の勉強をしておかないと、流れについていけなくなる体質もある。

 昔ははやった上げ底、大根の半切りを1本に見えるようなまやかし、空気を入れて中身を大きく見せる袋販売、色の錯覚の利用など、あげれば枚挙にいとまがない。

 どちらにしても、人様の幸せの為に商いをすることが大切である。

コメント
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