「日本古典文学の表現をどう解析するか」(竹林一志、笠間書院)を部分的に読みました。
第1章は、古今和歌集・16番歌「野辺ちかくいへゐしせれば鶯の鳴くなるこゑはあさなあさな聞く」の解析です。「鳴くなる」の「なり」と、「こゑは」の「は」がポイントです。
岩波文庫本・古今和歌集(佐伯梅友校注)の脚注でも、「なり」を伝聞・推定ととっているようです。
鶯の“文化的生態”というとらえ方は、他の歌語にも言えると思うので、探っていきたいです。当時の共通認識は、やっぱり現代とは異なるでしょうから、動植物に限らず、調べたいものです。(歌語と当時の認識のされ方、そして実例=和歌を挙げた辞典みたいのがあったら良いのに……。)
次いで“有脈テクスト論的観点”で論じているのだから、ついでに 16番歌以降の春歌における鶯の取り扱いについても、触れてほしかったです。というのも、古今集においては、「鶯が鳴くのを聞き、春の喜びを実感する歌」が、ないのかー、意外! と思ったからです。古今集編者は、歌題・鶯(×梅)は「春浅き」時期のものとして配列しているということでしょうから。
となると、後続の勅撰集での鶯の扱いは、どうなっているのでしょう。気になってきました。(後拾遺集にいたって、初めて「鶯が鳴くのを聞き、春の喜びを実感する歌」が登場するようです。後撰・拾遺集は、まったく古今集を踏襲してるみたい。)
もちろん、梅×鶯の組み合わせだけではなく、竹×鶯、柳×鶯、桜×鶯、その他の組み合わせもあるわけで、それらを探すだけでも、楽しそうです。
とは言え、鶯は三春の季語なので、勅撰集春部の全体に散らばって登場してもおかしくありません。ただ、“走り”というか、出はじめの時期を強調するものかな、とも思います。(実際の生態としては、夏・秋まで老い声で鳴くこともあるようですが、それは晴の歌には向かない題ですよね。)
第2章の枕草子・冒頭の「春はあけぼの」段の解析も、興味深かったです。
「僕はうなぎだ。」は、外食の際のセリフとして理解できるが、例えばこの文が、小説の冒頭に来たら、「吾輩は猫である。」と同じように理解することになるだろう、って部分がツボにはまって、かなり笑えました。御説もっとも!