かゝる紛れどもにて春も暮れぬるに、花の盛りを頼めつゝ訪(と)はずなりぬる人に、五月一日比、盛りなる藤に付けて遣はし侍。
頼めてもとはれぬ花の春暮れてたれ松山とかゝる藤波
とへや君山時鳥おとづれて小田の早苗も取りそむる比
返事に、
頼め来(こ)し花の盛りは過ぬれど今も心にかゝる藤波
時鳥さこそ五月の己(をの)が比鳴くや山路を思ひやりつゝ
(竹むきが記~岩波・新日本古典文学大系51)
五月九日兵部少輔大伴宿祢家持之宅集宴
我が背子が宿のなでしこ日並べて雨は降れども色も変らず
右一首大原真人今城
ひさかたの雨は降りしくなでしこがいや初花に恋しき我が背
右一首大伴宿祢家持
(万葉集~バージニア大学HPより)
五月のはじめの日になりぬれば、れいの大夫
うちとけてけふだにきかんほとゝぎすしのびもあへぬときはきにけり
かへりごと
ほとゝぎすかくれなきねをきかせてはかけはなれぬるみとやなるらん
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)
承安二年五月東山仙洞にして公卿侍臣以下を左右に分ちて鵯合の事
承安二年五月二日、東山仙洞にて鵯合(ひよどりあはせ)のことありけり。公卿・侍臣・僧徒・上下の北面の輩(ともがら)、つねに伺候のものども、左右をわかたれたり。左方頭、内蔵頭親信朝臣、右方頭、右近中将定能朝臣也。前夜、寝殿の巽(たつみ)にあたりて地台一面をおく。五節の造物の台のごとし。款冬(やまぶき)をむすびてうゑたり。其上に銀の賢木を栽(うゑ)て、葉柯に用(もちゐ)て銀台をすゑたり。たかさ八尺ばかり也。色どりて藤花をむすびてかけたり。葉柯の南に玉の鵯籠をおく。その北に銀鵯をいれておく。かりやの東砌に、第一の間にあたりて、挿花台をたてゝ、勝負の算とす。其北に錦円座を敷て太鼓・鉦鼓をたつ。仮屋の艮(うしとら)に、盧橘樹をつくりてうゑたり。同(おなじく)北の妻には、薔薇をつくりて栽(うゑ)たり。東砌には松樹に藤をかけてうゑたり。其外牡丹・款冬などをつくりて栽(うゑ)たり。(略)先(まづ)左方念人着座、次右方念人、西の中門を入て参進のあひだ、まゐり音声あり。竹屋をつくりて、黒木の屋に擬して、春日詣に准じけり。新源中納言拍子をとりて、「春日なる御堂の山のあをやまの」とうたふ。右中将定能朝臣、篳篥をふく。右少将雅賢、和琴を弾ず、府随身二人和琴をかく。件(くだんの)両人間(まま)助音しけり。又陪従信綱もおなじくつけゝり。右兵衛佐基範笛をふく。念人中雅賢朝臣・基範・侍従家保等、舞人の装束をして参進。見る人嗟嘆せずといふことなし。念人等右着座の後、左右の頭をめす。左方、伊予守親信朝臣、右方、右中将定能朝臣、御前にまゐる。左右の鳥、同時に持参すべきよしを仰す。即(すなはち)両方の鳥を持参して、南階の間のすのこにおく。一番左、右衛門督の鳥、字(あざな)無名丸、左少将盛頼朝臣持参す。右、五条大納言の鳥、字(あざな)千与丸、右少将雅賢朝臣持参す。左右ともにうそをふく。其興なきにあらず、勝負いかやうにみゆるやのよし、定能朝臣をもてたづね仰られければ、(略)左右持にさだめられにけり。仍(よりて)両方かずをさす。左方の算判蔵人右少将親宗、銀鵯一羽とりて参進して葉柯につく。次雅賢朝臣、先(まづ)挿冠(かざし)の花をぬきて、錦円座につく。次鳥をとりて退入(しりぞきいる)。盛頼朝臣おなじく鳥をとりてしりぞき入(いる)。其後十二番ありけり。左方勝四番、右方勝二番、持六番也。次左方楽器をたつ。次楽人参進して楽を奏す。次陵王、陵王の終頭に、右方より定能朝臣をもて此の如きの興遊に、左右勝負舞を奏する事先例あり、いかやうに存ず可き哉之由奏しければ、用意の事等、右懃仕す可き之由おほせられけり。次納蘇利を奏す。右近将曹多好方・右近多成長等つかうまつりけり。次右方楽人散楽、北面下臈等、錦の地鋪(ぢしき)を庭上に敷て、舞台に擬す。妓女二人、甘洲をまふ。負方妓女の舞を奏する事、いはれなき事なれども、用意のこと懃仕すべきよし仰下さるゝあひだ、奏しける也。源中納言鞨鼓をうちて、たかく唱歌(しゃうが)ありけり。此の間盃を羞む。右方人座を立て退去して、中門廊辺に徘徊しけり。次左右歌女(うたひめ)唱歌・舞妓猶舞(まふ)、興遊にたへず。公卿已下庭上にて乱舞ありけり。一日の放宴を為すと雖ども、定めて万代之美談を備ふる歟。昏黒事了、おのおの退出の事、(略)
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系84)
六日のつとめてよりあめはじまりて三四日ふる。かはとまさりて人ながるといふ。それもよろづをながめおもふにいといふかぎりにもあらねどいまはおもなれにたることなどはいかにも/\おもはぬに、このいし山にあひたりし法師のもとより「御いのりをなんする」といひたる かへりごとに「いまはかぎりにおもひはてにたるみをばほとけもいかゞし給はん、たゞいまはこの大夫を人々しくてあらせ給へなど許を申し給へ」とかくにぞなにとにかあらんかきくらしてなみだこぼるゝ。
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)
寛弘六年五月一日、乙卯。
内裏に参った。上野国の諸牧の御駒牽が行なわれた。
今朝、沐浴した。或る人が云ったことには、「五月は髪を洗わない。また、月の一日は沐浴を忌む」と云うことだ。そこで『暦林』を見てみると、「五月一日に髪を洗うのは良い。この日に沐浴すると、人の目を明るくし、長命富貴となる」と。また、云ったことには、「五月一日、日の出に沐浴すれば、過三百を除き、人に病を無くさせる。また、卯の日の沐浴、五月一日の沐浴は、寿命を延ばし、禍を除く」と。一に云ったことには、「朔日に沐浴すれば、三箇月を出ないで大喜が有る」と。これらの文が有ったので、沐浴を行なったのである。今日、内裏に参った。右近の仗座に伺候した。これより前、右大将(藤原実資)・中宮大夫(藤原斉信)・大蔵卿(藤原正光)が参られた。外記(小野)文義が小庭に進んで、御馬解文が揃っているということを申した。(略)
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
長保五年五月一日、庚寅。
外記庁に参った。左府(藤原道長)の許に参った。法華三十講始が行なわれた。院源僧都と林懐已講を証義者とした。朝晴を講師とした。日助を問者とした。講が終わって、作文会が行なわれた。文章博士(弓削)以言宿禰を題者とした。「雨は水上の糸である」を題とした。韻は流であった。そこで以言を序者とした。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
長保五年五月六日、乙未。
昨日と今日は物忌であった。召しが有ったので、晩方、内裏に参った。作文会が行なわれた。
題は「初蝉(しょぜん)、わずかに一声」であった。心を韻とした。(藤原)広業が序者となった。左大臣(道長)・左右衛門督(藤原公任・藤原斉信)・弼(藤原有国)・中将(源俊賢)・左大弁(藤原忠輔)・(藤原)実成・(高階)明順・(源)道方・(源)明理・(源)伊頼・(源)道済が、詩を献上した。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
(長和二年五月)十日、庚子。
楽人たちを召して、小さな管弦の宴遊を行なって仏に供した。一日中、雨が降った。また、詩題をだした。後に人々は分散して帰り、各々、家において詩を作って、明日、持って来るように伝えた。深夜、人々は退出した。題は、「蓮の香りが近く、衣に入った」であった。薫を韻とした。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
(元久元年五月)五日。天晴る。鳥羽殿に参ず。御出でおはしますの後に、退出す。明日、五節の遊びを行はるべしと云々。近習の公卿以下、殿上人六位となす。乱舞遊宴あるべしと云々。無骨の物、召されず。尤も然るべし。
六日。以後三ヶ日、籠居。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
(寛喜元年五月)五日(壬申)。朝天晴る。(略)牡丹の花盛んに開く。此の花端午の日に逢ひ、年来之を見ず。瞿麦此の間に漸く綻ぶ。(略)
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
武徳殿の小五月(こさつき)の競馬は、埒(らち)の弘(ひろ)ければ、遠騎(とほのり)なり。しかりといへども、勝負は事の外に早速なり。(略)
(中外抄~岩波・新日本古典文学大系32)
(2015年5月1日の「古典の季節表現 夏 五月一日」の記事は削除しました。)