しなしなの記録

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佐倉城は、明治に建物が撤去され、歩兵連帯が駐屯するところとなり、今は歴史民俗博物館があることを知りました

2018-07-30 20:31:30 | Weblog

 6月17日(日)です。成田空港から京成佐倉駅に降りた私が目指したのは、国立歴史民俗博物館です。

 

 モニュメントをくぐり、国立歴史民俗博物館に向かう途中に表示が有りました。

 

 1873年(明治6年)に佐倉城は建物が払い下げられ、撤去されました。そして、翌年、1874年(明治7年)に日本で最初の歩兵第二連隊が駐屯する地になったそうです。1909年(明治42年)からは、歩兵第五十七連隊が駐屯する地になったそうです。

 さらに進み、国立歴史民俗博物館横にも標示が有りました。

 

 ここは元々、椎木曲輪(しいのきくるわ)と呼ばれる侍屋敷地区だったそうです。明治に入り、連隊が駐屯していた頃は、兵舎があったそうです。そして、現在は歴史民俗博物館が建っています。


 歴史民俗博物館を出ると、馬出し空濠の表示が有りました。

 

 城門前に築かれ、人馬を隠し、相手に悟られないために造られた空濠だそうです。明治初期に連隊造営のため、埋められていたものを1971年(昭和46年)に発掘したそうです。長辺121m、短辺40m、深さは5.6mもあったそうです。


 佐倉城の旧天守閣に向かう途中に、像が建っています。

 

 

 堀田正睦公とタウンゼント・ハリスさんです。日米修好通商条約に尽力した老中とアメリカ総領事です。

 正岡子規の句碑も有りました。「常磐木や冬されまさる城の跡」と刻まれています。

 


 秋田県の由利本荘市の本荘城址で、石垣ではなく、土塁で築かれた城があることを知りました。この佐倉城も土塁で築かれた城であることが標示されていました。

 

 佐倉城の天守閣は、1813年(文化10年)に焼失したそうです。その跡には、碑が建っており、天守閣の見取り図も置かれています。トップと下の写真です。

 


 こちらは、二の丸跡です。

 

 藩主はこちらの二の丸御殿で生活したそうです。本丸御殿は将軍御成り時の宿泊所、年始・五節句などの行事に使われていたそうです。徳川家康公が本丸御殿で休息なされて以来、本丸御殿の使用は畏れ多く、常用されないこととなったそうです。
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