伊達メセナ協会が主催する演劇公演があった。
観劇は、1年ぶりになる。
日比谷近くの帝劇や浜松町の四季劇場などでの、
大規模公演とは違うが、
今回はチラシにあった作品の解説を読み、
いつも以上に期待をして、チケットを購入した。
まずは、チラシの解説から・・・。
『コメディオンザボート公演 花咲く家の物語』
『この作品にはモデルがあります。
それは金沢市に実在したグループホーム「若人の家」です。
「若人の家」は、1984年地元の養護施設に勤務する小杉孝志、康子夫妻が
「知的障害を持つ人々にも普通の生活を送ってほしい」との思いから、設立されました。
軽度の知的障害を持つ6人の若者たちと小杉一家の共同生活。
それは、周囲からの無理解、意図しない差別など困難の連続でしたが、
日々笑いの絶えない明るい家庭が築かれました。
しかし、若者たちに慕われていた康子さんは、
創立から10年目の1994年に逝去。
康子さんと彼らの生き生きとした日常に
心を揺り動かされたマルセ太郎は、「花咲く家の物語」を発表。
明るいタッチで描かれたこの作品は、1997年の初演以来、再演を重ね、
各方面から名作との高い評価を得、マルセ本人も、とても大切にしていた作品です。
2018年これが最後の上演と、10年ぶりに再演したところ大好評。
2021年11月、北海道3箇所での公演となりました。
マルセ喜劇の 真骨頂をお楽しみください。』
公演後、出演者15名の8名が65歳以上だとのコメントがあった。
初演から20年間、キャスティングの大きな入れ替わりがないまま、
続けてきたのだろう。
だからなのか、コメディタッチの息の合った舞台に、
ずっと釘付けになった。
康子さんと6人の知的障害を持つ若者の、
生き生きとしたやり取りに、自然と引き込まれた。
前半は、知らずに笑みがこぼれた。
そして、後半・・・。
康子さんのガンが末期を迎え、入院。
「花咲く家」での共同生活は終わりとなる。
ある日、6人の若者の1人が、実の母親と暮らしだし、
初めて康子さんを病室に見舞った。
共同生活では、いつも屈託のない明るい表情で楽しげだった彼が、
沈んだ顔で何も語らず、康子さんのベッドの横で、
静かに椅子に腰掛けていた。
康子さんは、点滴をしたままベッドに座り、
実の母親から彼の近況を聞き、明るく応じていた。
その会話は途切れないのだが、
彼の沈んだ顔は、ずっと変わらないまま・・。
いかに康子さんらとの暮らしがよかったか。
ベッドの横での無言、無表情が、切々と訴えかけていた。
急に、40年も前になるが、
1年生を担任した教室で、何も言わず、
ジッと座ったままだった自閉症のT君を思い出した。
6年担任の私の教室に、
急きょ編入した脳性マヒのYちゃんの、
押し黙ったままの暗い表情が浮かんだ。
無言の表情に距離感を感じ、
何の策もなく、無力感だけの日々が続いた。
しかし、2人からは、教師として人として、
大切なことを沢山気づかせてもらった。
大事なことをいくつも学んだ。
「あの貴重な経験があったから、その後の私が・・」。
舞台の若者の沈んだ表情が、思い出させてくれた。
劇は、康子さんの一周忌の場面で終演だったが、
「『花咲く家』での10年は、6人の若者にとって、
幸せな日々だった。それがきっと彼らの生きる力に・・」。
そんな想いを強くした舞台だった。
会場を後にした道々、
学校で出会った障害を持った子ども達の顔が、
次々と浮かんだ。
どの子についても、その後は知らない。
成人後も、誰かの手助けを必要としているに違いない。
彼らは手厚い保護を受けているのだろうか。
ベッドの横の若者のように、
あるいは、出会ったばかりのT君やYちゃんのように、
まさか無言・無表情での日々なんかじゃ・・・。
急に不安が襲った
しかし、今の私にできることは?・・・。
じっと足もとを見た。
しばらくして、7年前の夏、このブログに記した
『9年目の涙』にたどり着いた。
あの時の、T君だけじない。
彼らは自分の心の内を、巧みな表現や言語では伝えられない。
でも、日々刻々と変化する自身の想いや願いを、
彼らなりの方法で伝えようとしている。
きっと、今もそうしているに違いない。
回りには、それをキャッチしてくれる人たちが必ずいる。
そう信じて、家路へ向かった。
14年8月のブログから『9年目の涙』を転記する。
* * * * *
教職について9年目のとき、久しぶりに1年生担任になった。
その学級に自閉症のT君がいた。
私にとってそのような子の担任は初めてだった。
T君は言葉が少なく、いつもジッと椅子に座っていた。
教科書もノートも筆箱も準備することはなかった。
私がT君のそばに行き、ノートを机に広げてやると、
鉛筆を取り出し、勝手に電車の絵を描いた。
「ダメだよ。今はお絵かきの時間じゃないよ。国語のお勉強だよ。」
電車の絵を辞めさせるようとすると、突然大粒の涙をこぼし、
大声で「お母さん、かえる。お母さん、かえる。」と、叫び出すのだった。
この「お母さん、かえる。」が始まると、
私はもうお手上げ状態で、
仕方なくT君の家に電話をし、お母さんに来てもらうのだった。
幸い、学校の近くに住まいがあったので、
いつも5分もかからずお母さんは駆けつけてくださった。
私は、その5分間をただオロオロとしているだけで、
T君の「お母さん、かえる。」を止めることができなかった。
T君に振り回される毎日を送った。
そして、いつも「お母さん、かえる。」の言葉を恐れた。
しかし、徐々にではあったが、T君が分かるようになり、
少しずつ彼との距離を縮めることができた。
それでも、時折T君の思いを理解できず、
「お母さん、かえる。」の大声と大粒の涙に見舞われた。
1年が過ぎ、2年生になってもT君を受け持った。
その頃になると、学級の子ども達ともT君はうち解けて、
過ごすことが多くなった。
時々、休み時間には学級の子ども達と一緒に楽しく過ごした。
ある日の休み時間だった。
T君は学級のみんなと校庭にいた。
私は職員室で仕事に追われていた。
その時、校庭からT君の例の泣き叫ぶ声がした。
久しぶりのT君の声に、私は一瞬全身に力が入った。
しかし、T君の「お母さん、かえる。」の声のはずが、
「先生、かえる。」に聞こえた。
まさかと思いつつ、校庭に走り出た。
「お母さん、かえる。」ではなく、
はっきりと「先生、かえる。」と言っていた。
T君のそばに走りより、いつもお母さんがしているように、
T君のポケットから真っ白なハンカチを取り出し、
T君の涙をふきながら、
「もう大丈夫だよ。もう大丈夫。先生がいるからね」。
私はそう言いながら、ボロボロと涙をこぼした。
あの時、はじめて教職に魅せられた気がする。
2階の窓から お隣の柿の実
観劇は、1年ぶりになる。
日比谷近くの帝劇や浜松町の四季劇場などでの、
大規模公演とは違うが、
今回はチラシにあった作品の解説を読み、
いつも以上に期待をして、チケットを購入した。
まずは、チラシの解説から・・・。
『コメディオンザボート公演 花咲く家の物語』
『この作品にはモデルがあります。
それは金沢市に実在したグループホーム「若人の家」です。
「若人の家」は、1984年地元の養護施設に勤務する小杉孝志、康子夫妻が
「知的障害を持つ人々にも普通の生活を送ってほしい」との思いから、設立されました。
軽度の知的障害を持つ6人の若者たちと小杉一家の共同生活。
それは、周囲からの無理解、意図しない差別など困難の連続でしたが、
日々笑いの絶えない明るい家庭が築かれました。
しかし、若者たちに慕われていた康子さんは、
創立から10年目の1994年に逝去。
康子さんと彼らの生き生きとした日常に
心を揺り動かされたマルセ太郎は、「花咲く家の物語」を発表。
明るいタッチで描かれたこの作品は、1997年の初演以来、再演を重ね、
各方面から名作との高い評価を得、マルセ本人も、とても大切にしていた作品です。
2018年これが最後の上演と、10年ぶりに再演したところ大好評。
2021年11月、北海道3箇所での公演となりました。
マルセ喜劇の 真骨頂をお楽しみください。』
公演後、出演者15名の8名が65歳以上だとのコメントがあった。
初演から20年間、キャスティングの大きな入れ替わりがないまま、
続けてきたのだろう。
だからなのか、コメディタッチの息の合った舞台に、
ずっと釘付けになった。
康子さんと6人の知的障害を持つ若者の、
生き生きとしたやり取りに、自然と引き込まれた。
前半は、知らずに笑みがこぼれた。
そして、後半・・・。
康子さんのガンが末期を迎え、入院。
「花咲く家」での共同生活は終わりとなる。
ある日、6人の若者の1人が、実の母親と暮らしだし、
初めて康子さんを病室に見舞った。
共同生活では、いつも屈託のない明るい表情で楽しげだった彼が、
沈んだ顔で何も語らず、康子さんのベッドの横で、
静かに椅子に腰掛けていた。
康子さんは、点滴をしたままベッドに座り、
実の母親から彼の近況を聞き、明るく応じていた。
その会話は途切れないのだが、
彼の沈んだ顔は、ずっと変わらないまま・・。
いかに康子さんらとの暮らしがよかったか。
ベッドの横での無言、無表情が、切々と訴えかけていた。
急に、40年も前になるが、
1年生を担任した教室で、何も言わず、
ジッと座ったままだった自閉症のT君を思い出した。
6年担任の私の教室に、
急きょ編入した脳性マヒのYちゃんの、
押し黙ったままの暗い表情が浮かんだ。
無言の表情に距離感を感じ、
何の策もなく、無力感だけの日々が続いた。
しかし、2人からは、教師として人として、
大切なことを沢山気づかせてもらった。
大事なことをいくつも学んだ。
「あの貴重な経験があったから、その後の私が・・」。
舞台の若者の沈んだ表情が、思い出させてくれた。
劇は、康子さんの一周忌の場面で終演だったが、
「『花咲く家』での10年は、6人の若者にとって、
幸せな日々だった。それがきっと彼らの生きる力に・・」。
そんな想いを強くした舞台だった。
会場を後にした道々、
学校で出会った障害を持った子ども達の顔が、
次々と浮かんだ。
どの子についても、その後は知らない。
成人後も、誰かの手助けを必要としているに違いない。
彼らは手厚い保護を受けているのだろうか。
ベッドの横の若者のように、
あるいは、出会ったばかりのT君やYちゃんのように、
まさか無言・無表情での日々なんかじゃ・・・。
急に不安が襲った
しかし、今の私にできることは?・・・。
じっと足もとを見た。
しばらくして、7年前の夏、このブログに記した
『9年目の涙』にたどり着いた。
あの時の、T君だけじない。
彼らは自分の心の内を、巧みな表現や言語では伝えられない。
でも、日々刻々と変化する自身の想いや願いを、
彼らなりの方法で伝えようとしている。
きっと、今もそうしているに違いない。
回りには、それをキャッチしてくれる人たちが必ずいる。
そう信じて、家路へ向かった。
14年8月のブログから『9年目の涙』を転記する。
* * * * *
教職について9年目のとき、久しぶりに1年生担任になった。
その学級に自閉症のT君がいた。
私にとってそのような子の担任は初めてだった。
T君は言葉が少なく、いつもジッと椅子に座っていた。
教科書もノートも筆箱も準備することはなかった。
私がT君のそばに行き、ノートを机に広げてやると、
鉛筆を取り出し、勝手に電車の絵を描いた。
「ダメだよ。今はお絵かきの時間じゃないよ。国語のお勉強だよ。」
電車の絵を辞めさせるようとすると、突然大粒の涙をこぼし、
大声で「お母さん、かえる。お母さん、かえる。」と、叫び出すのだった。
この「お母さん、かえる。」が始まると、
私はもうお手上げ状態で、
仕方なくT君の家に電話をし、お母さんに来てもらうのだった。
幸い、学校の近くに住まいがあったので、
いつも5分もかからずお母さんは駆けつけてくださった。
私は、その5分間をただオロオロとしているだけで、
T君の「お母さん、かえる。」を止めることができなかった。
T君に振り回される毎日を送った。
そして、いつも「お母さん、かえる。」の言葉を恐れた。
しかし、徐々にではあったが、T君が分かるようになり、
少しずつ彼との距離を縮めることができた。
それでも、時折T君の思いを理解できず、
「お母さん、かえる。」の大声と大粒の涙に見舞われた。
1年が過ぎ、2年生になってもT君を受け持った。
その頃になると、学級の子ども達ともT君はうち解けて、
過ごすことが多くなった。
時々、休み時間には学級の子ども達と一緒に楽しく過ごした。
ある日の休み時間だった。
T君は学級のみんなと校庭にいた。
私は職員室で仕事に追われていた。
その時、校庭からT君の例の泣き叫ぶ声がした。
久しぶりのT君の声に、私は一瞬全身に力が入った。
しかし、T君の「お母さん、かえる。」の声のはずが、
「先生、かえる。」に聞こえた。
まさかと思いつつ、校庭に走り出た。
「お母さん、かえる。」ではなく、
はっきりと「先生、かえる。」と言っていた。
T君のそばに走りより、いつもお母さんがしているように、
T君のポケットから真っ白なハンカチを取り出し、
T君の涙をふきながら、
「もう大丈夫だよ。もう大丈夫。先生がいるからね」。
私はそう言いながら、ボロボロと涙をこぼした。
あの時、はじめて教職に魅せられた気がする。
2階の窓から お隣の柿の実
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