当地で購読されている新聞の第1位は、
「北海道新聞」に違いない。
次は、「室蘭民報」ではないだろうか。
我が家のように、「朝日新聞」を購読している家庭は、
ごく少数な気がする。
2年ほど前になる。
「朝日新聞」の取扱店が変わった。
なので、新しい店の方が挨拶に来た。
全く商売っ気がない方のようで真っ先にこう言った。
「来月から取扱店が変わります。
この機会に、購読をやめても構いませんよ。
今まで何か義理があって断れなかったのと違いますか。
私の方、全然大丈夫です。
どうしますか。やめますか?
それとも続けて配達しますか?」。
あたかも購読を望んでないかの言いっぷりに、
不人気ぶりを実感した。
その上、今年の夏のことだが、
二男が孫と一緒に数日、我が家に滞在した。
朝日新聞を購読していることに気づき、
「朝日は、公平さに欠けているよ。
別の新聞を読んだ方がいいと思うよ」。
現職の頃、電車の中吊り広告で、
朝日新聞の酷評を目にしたことがある。
同様の声を息子から聞き、驚いた。
私が朝日新聞の購読を続けているのは、
そんな不人気や酷評とは無縁である。
毎日1面に掲載される『折々のことば』と
『天声人語』を読みたいからである。
朝一番に、この2つのコラムを読み、
共感したり、気づかされたり、反省したり・・・。
今や、私の日々には無くてはならない、
道しるべのようなものだ。
さて、11月6日7日8日の3日連続だったが、
その日その日の『折々のことば』に強く打たれた。
このコラムを執筆している哲学者の鷲田清一さんは、
『哲学の発想を社会が抱えている諸問題につなげることによって、
哲学が社会に対してできることを探求している』と、
ウィキペディアが紹介している。
だからか、彼がコラムで取り上げる「ことば」も、
その解説もやや難解で、投げ出すこともある。
しかし、3日間の内容は、
私の今を導くヒントに十分だった。
① 11月6日号
感情が波立っているうちに言い返しては
いけません。……母はよく「つばを3回
飲み込みなさい」と言うとりました。
石井哲代
言い返したその時はすっきりするか
もしれないが、後でかならず後悔する
からと、元小学校教員は言う。要はち
ょっとした間をつくって、心を落ち着
かせること。「同じ一生なら機嫌よう
生きていかんと損じゃ」と自分に言い
聞かせてもいる。心は自分で育てるほ
かないからと。石井と中国新聞社の共
著『102歳、一人暮らし。』から。
~ 感情が波立ったまま言い返し、
後悔した過去を生々しく思い出した。
あんなこともこんなこともあった。
恥ずかしいことに、
「機嫌よう生きていかんと損」なんて、
自分に言い聞かせたことは一度もなかった。
私の軽薄さに気持ちが沈みかけた。
でも、心は自分で育てるほかないと、
励まされた。 ~
② 11月7日号
一人が一度に背負う悲しみには限界があ
ります。だから仲間が一緒に引き受け
て、一人の深い憂いに寄り添うの。
石井哲代
人は死んだら終わりではない。同じ
時間を過ごした仲間が覚えていてくれ
るなら、その人はまだ居る。年に一度
開く「偲ぶ会」も、だから各自が背負
う悲しみを共に乗り越えてゆく集いな
のだと、元小学校教員は言う。そうし
て欠けた三日月のような自分を満月に
してゆくのだと。石井と中国新聞社の
共著『102歳、一人暮らし。』から。
~ ここ数年、大切な人が何人も逝ってしまった。
寂しさがずっと尾を引いている。
それに限らない。
「まだまだ頑張れる!」。
そんな気力に曲がりなりにも体力がついていった。
時には旅先でのランニングも楽しんだ。
しかし、次第にハードルが下がり、
今では、「まだまだ」が「ここまで頑張れた」になった。
押し寄せる変化に、切なくなったり・・・。
先日、都内で研究会仲間6人で食事会があった。
遠慮などいらない。
気心の知れた打ち解けた時間が流れた。
『各自が背負う悲しみを共に乗り越えてゆく集い』には、
まだほど遠い。
でも、『欠けた三日月のような自分を満月に
して』くれた余韻が残った。
「そんな仲間と時間が大事なんだ!」と・・・。~
③ 11月8日号
草花を愛して、人間を愛さなくなってい
る自分を発見して、おどろくこともある
長新太
人間はこんなことさえできるのか。
そしてその可能性がまぎれもなく自身
にもあることに気づき、人間であると
いうことに絶望することがある。草花
を愛でるのは、草花そのものを愛する
というより、人間ではないというただ
その一点でそれを愛しているだけなの
かもしれない。だから絵本画家・イラ
ストレーターはこのあと『情無い』と
続けた。『絵本画家の日記2』から。
~ 同じように私も
『人間であることに絶望することがある』。
故に長新太氏は、
『草花を愛して、人間を愛さなくなっている自分』
に驚き、
『人間ではないというただその一点で
それを愛しているだけなのかも』
と言う。
ふと、相田みつを書の1枚が思い浮かんだ。
花には人間のような
かけひきがないからいい
ただ咲いて
ただ散って
ゆくからいい
ただになれない
人間のわたし
2人にある「逃避と弱音」に共感する私。
でも、相田氏の書は、淡々とした筆跡を残し「かけひき」がない。
長新太氏は『情無い』と綴る。
「音を上げるのはまだまだ先!」と、
2人から声が聞こえた気がした。 ~
花壇じまい そして 初雪の朝
「北海道新聞」に違いない。
次は、「室蘭民報」ではないだろうか。
我が家のように、「朝日新聞」を購読している家庭は、
ごく少数な気がする。
2年ほど前になる。
「朝日新聞」の取扱店が変わった。
なので、新しい店の方が挨拶に来た。
全く商売っ気がない方のようで真っ先にこう言った。
「来月から取扱店が変わります。
この機会に、購読をやめても構いませんよ。
今まで何か義理があって断れなかったのと違いますか。
私の方、全然大丈夫です。
どうしますか。やめますか?
それとも続けて配達しますか?」。
あたかも購読を望んでないかの言いっぷりに、
不人気ぶりを実感した。
その上、今年の夏のことだが、
二男が孫と一緒に数日、我が家に滞在した。
朝日新聞を購読していることに気づき、
「朝日は、公平さに欠けているよ。
別の新聞を読んだ方がいいと思うよ」。
現職の頃、電車の中吊り広告で、
朝日新聞の酷評を目にしたことがある。
同様の声を息子から聞き、驚いた。
私が朝日新聞の購読を続けているのは、
そんな不人気や酷評とは無縁である。
毎日1面に掲載される『折々のことば』と
『天声人語』を読みたいからである。
朝一番に、この2つのコラムを読み、
共感したり、気づかされたり、反省したり・・・。
今や、私の日々には無くてはならない、
道しるべのようなものだ。
さて、11月6日7日8日の3日連続だったが、
その日その日の『折々のことば』に強く打たれた。
このコラムを執筆している哲学者の鷲田清一さんは、
『哲学の発想を社会が抱えている諸問題につなげることによって、
哲学が社会に対してできることを探求している』と、
ウィキペディアが紹介している。
だからか、彼がコラムで取り上げる「ことば」も、
その解説もやや難解で、投げ出すこともある。
しかし、3日間の内容は、
私の今を導くヒントに十分だった。
① 11月6日号
感情が波立っているうちに言い返しては
いけません。……母はよく「つばを3回
飲み込みなさい」と言うとりました。
石井哲代
言い返したその時はすっきりするか
もしれないが、後でかならず後悔する
からと、元小学校教員は言う。要はち
ょっとした間をつくって、心を落ち着
かせること。「同じ一生なら機嫌よう
生きていかんと損じゃ」と自分に言い
聞かせてもいる。心は自分で育てるほ
かないからと。石井と中国新聞社の共
著『102歳、一人暮らし。』から。
~ 感情が波立ったまま言い返し、
後悔した過去を生々しく思い出した。
あんなこともこんなこともあった。
恥ずかしいことに、
「機嫌よう生きていかんと損」なんて、
自分に言い聞かせたことは一度もなかった。
私の軽薄さに気持ちが沈みかけた。
でも、心は自分で育てるほかないと、
励まされた。 ~
② 11月7日号
一人が一度に背負う悲しみには限界があ
ります。だから仲間が一緒に引き受け
て、一人の深い憂いに寄り添うの。
石井哲代
人は死んだら終わりではない。同じ
時間を過ごした仲間が覚えていてくれ
るなら、その人はまだ居る。年に一度
開く「偲ぶ会」も、だから各自が背負
う悲しみを共に乗り越えてゆく集いな
のだと、元小学校教員は言う。そうし
て欠けた三日月のような自分を満月に
してゆくのだと。石井と中国新聞社の
共著『102歳、一人暮らし。』から。
~ ここ数年、大切な人が何人も逝ってしまった。
寂しさがずっと尾を引いている。
それに限らない。
「まだまだ頑張れる!」。
そんな気力に曲がりなりにも体力がついていった。
時には旅先でのランニングも楽しんだ。
しかし、次第にハードルが下がり、
今では、「まだまだ」が「ここまで頑張れた」になった。
押し寄せる変化に、切なくなったり・・・。
先日、都内で研究会仲間6人で食事会があった。
遠慮などいらない。
気心の知れた打ち解けた時間が流れた。
『各自が背負う悲しみを共に乗り越えてゆく集い』には、
まだほど遠い。
でも、『欠けた三日月のような自分を満月に
して』くれた余韻が残った。
「そんな仲間と時間が大事なんだ!」と・・・。~
③ 11月8日号
草花を愛して、人間を愛さなくなってい
る自分を発見して、おどろくこともある
長新太
人間はこんなことさえできるのか。
そしてその可能性がまぎれもなく自身
にもあることに気づき、人間であると
いうことに絶望することがある。草花
を愛でるのは、草花そのものを愛する
というより、人間ではないというただ
その一点でそれを愛しているだけなの
かもしれない。だから絵本画家・イラ
ストレーターはこのあと『情無い』と
続けた。『絵本画家の日記2』から。
~ 同じように私も
『人間であることに絶望することがある』。
故に長新太氏は、
『草花を愛して、人間を愛さなくなっている自分』
に驚き、
『人間ではないというただその一点で
それを愛しているだけなのかも』
と言う。
ふと、相田みつを書の1枚が思い浮かんだ。
花には人間のような
かけひきがないからいい
ただ咲いて
ただ散って
ゆくからいい
ただになれない
人間のわたし
2人にある「逃避と弱音」に共感する私。
でも、相田氏の書は、淡々とした筆跡を残し「かけひき」がない。
長新太氏は『情無い』と綴る。
「音を上げるのはまだまだ先!」と、
2人から声が聞こえた気がした。 ~
花壇じまい そして 初雪の朝
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