ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

何ができる? ~立ち止まりつつ

2019-03-09 17:30:54 | 思い
 3,11から8年になろうとしている。
今年もここ数日、『被災地の今』などと題した特集が、
テレビ報道で流れてくる。

 『復興した町や宅地』の一方で、
一向に変わらない、さらに深刻さを増すものがあり、
暗い気持ちになる。

 それに比べ、大都会・東京を中心に、
1年数ヶ月後に迫ったオリンピックに向け、
準備が急ピッチで進んでいる。

 その建築ラッシュの槌音に、
釈然としないギャップを感じるのは、私だけだろうか。

 それはさておき、
過去の自然災害から、有事への備えの大切さは、身にしみている。
 しかし、何ができるか。つい立ち止まってしまう。
今は、小さな経験からの陰と陽を記すことしかできない。

 
 ① 毛布も ない!
 まだ30歳代のころ、1986年11月のことだ。
伊豆大島の三原山が噴火した。
 観光の島である。
噴火当初、物珍しさもあって観光客が押し寄せた。
 ところが、同月末、予想外の大爆発がおきた。

 その日、テレビニュースは、
大噴火の被害と島民の避難の様子を知らせた。
 それは尋常の事態ではなかった。

 夜10時からのニュースは、いの一番に伝えた。
「ついに伊豆大島に、全島避難の命令が出ました。」
 切迫した様子の口調だった。

 「全島民が、これから船で東京に向かうんですね。
大変なことです。」
 キャスターは、驚きの表情を浮かべていた。

 そのテレビを観ていた私だが、
「他山の石」のごとくだった。
 いつものように、風呂上がりに寝酒を飲み、
おかわりのウイスキーをグラスに注いでいた。

 「東京に避難。」
そこだけは耳に残ったが、やはり他人ごとに変わりなかった。
 そのまま布団に入り、酒の勢いもあり寝入ってしまった。
  
 ところが、深夜だった。
電話の音に起こされた。
 受話器を取ると、これまた眠たそうな声だった。
勤務校の教務主任からだ。ビックリした。

 「伊豆大島から避難してきた船が、H埠頭に着くんだって。
その後、その人達は歩いて、うちの学校の体育館に入るんだそうだ。
 だから、その人たちをむかい入れる準備をするんだってさ。  
私も、これから学校に向かいます。
 先生もできるだけ早く学校に来てくれない。
車なら1時間位で来れるよね。
 よろしくね。」

 急に、伊豆大島の全島避難が身近になった。
予期しない連絡に、一気に鼓動が高鳴った。
 家内をおこした。
お風呂を追い炊きし、酔い覚めに汗を流した。
 そして、高速道路をマイカーで学校へ急いだ。

 校長も教頭も深夜に学校まで来る交通手段がなく、
指揮は、区の若い職員と教務主任が当たっていた。
 駆けつけた教職員は、数人だった。

 学校に着くなり、私へ指示があった。
「避難用の毛布が学校のどこかにあるはずだから、
それを探してほしい。」

 学校中のあらゆる部屋を探した。
倉庫や体育館の屋根裏まで、
埃をかき分けながら、考えられる全てを見て回った。
 しかし、どこにもそれらしい物がない。
時間だけが過ぎた。

 ついに伊豆大島の方々が、
のぼり旗を先頭に列を作って、学校に来た。

 毛布1枚、温かなお茶1杯用意できないまま、
3階の体育館へ案内した。

 着のみ着のままで船に乗り、やっと着いた東京の避難所だ。
その体育館は、明かりこそあるものの、他に何もない。
 まさかへの備えが何一つできていなかったのだ。

 「どうぞ、ゆっくり体を休めてください。」
決して、言えなかった。

 私は、迎える言葉もなく、
無言で体育館の入り口に立っていた。
 問われるままに、トイレや流し場を教えるだけだった。

 その体育館に毛布や非常食が運び込まれたのは、
昼過ぎだったらしい。

 学校は、体育館をのぞき、その日も平常授業だった。
いつもと同じように子どもは登校し、1日を過ごした。
 なので、避難してきた方々のその後は、ほとんど記憶がない。 
確かその日から数日を体育館で過ごしたと思う。

 しかし、あの時、何の準備もできずに、
伊豆大島の方々を迎えた無力さは、深く私の心に刻まれた。 
 今も、忘れられない。

 
 ② 信じて もらえない!
 校長職を終える3週間前に、3,11が発生した。
勤務校の区は、早々と区内の全小中学校を避難所にした。
 
 都内の全ての電車が止まっていたのである。
夕暮れとともに、
帰宅が困難な人々が私の学校にもやって来た。

 午後9時をまわり、近くの大型スーパーが閉店すると、
そこで電車の開通を待っていた人たちが大勢、避難してきた。

 職員総出で対応した。
私たちも初めての経験だった。
 なぜ9時を過ぎて、一気に人々が来たのかわからないまま、
毛布とペットボトルと非常食を配り、教室へ案内した。

 一晩中、情報は錯綜し、
情報の信ぴょう性を推し測りながら、
私は、職員へ指示し、避難所を切り盛りした。
 ずっと難しく未経験な局面が続いた。

 その様な中で、チョットした事件があった。
10時過ぎのことだった。
 制服を着た女子高生が1人、職員室のドアを開けた。
 
 厚手のハンカチで涙を抑え、無言で立っていた。
入り口そばの教員が近寄り、話を聞いてあげた。
 すぐにその事情が、校長室の私にも届いた。 
 
 女子高生は、下校途中の電車で地震にあった。
駅で止まったまま、いつまでも電車が動かないので、下車した。
 そして、駅前にあった大型スーパーで待機した。
でも、大型店が閉まった。
 しかたなく私の学校へ来た。
その経緯は、逐一千葉県内の自宅に携帯で伝えた。

 そこまではよかった。
ところが、避難所となった学校へ泊まることに、
両親は難色を示した。

 「私が、H駅近くの小学校が避難所だから、
そこに泊まるって言っても、信じてくれないんです。
 誰のところに泊まるんだって、疑って・・。」
女子高生はそう言って、私の前でも涙を流した。

 私は、女子高生のご自宅に電話した。
お父さんが受話器を取った。

 学校だけでなく、どこでも情報が混乱していた。
その信ぴょう性が問われた。
 「お嬢さんを避難所になった本校でお預かりしています。
ご安心ください。」
 校長と名乗った上だが、半信半疑のような応対だった。

 仕方なく、学校にある3本の電話番号を全て伝えた。
「折り返し、そのいずれかに電話をください。」
 そう言って電話を切った。

 まもなく電話が鳴った。
お父さんからだった。
 その電話に私が出ると、
ようやく安堵したように「よろしくお願いします。」と言った。
 その後、女子高生に替わった。
表情が次第に和らいだ。

 全てが災害時の予期しない展開だ。
我が子を案じる親心がどれ程か。
 それは、十分に理解できた。

 しかし、それに過剰反応し、娘に疑いを持った両親。
そのことに彷徨い涙し、職員室をノックした女子高生。

 彼女にとって助けを求める場所があった。
初めての学校でも、職員室がそれだった。
 今も、私を明るい気持ちにしてくれる。
 
 
 

   ついに今年も開花 福寿草

      ※次回のブログ更新予定は、3月23日(土)です。

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