Yちゃんは、脳性マヒで右半身が不自由だった。
右腕は、Vの字のまま脇腹近くにあって、
自力では動かせなかった。
右足は、つま先立ちの状態だったが、
それを引きずるようにしながらも、歩行ができた。
Yちゃんが入学した5月に、運動会があった。
私は、高学年の担任だった。
その年の職員競技は、『借り物競走』。
職員5人1組で走り出した途中に、カードが置いてある。
拾ったカードに書いてある物を借りて、ゴールするのだ。
私が手にしたカードには、“1年1組の子ども全員”とあった。
児童席に走り、1年1組の全員を引き連れてゴールした。
無事にゴールインと思ったが、
はるか先で、女の子が一人足を引きずりながら、
ゴールに向かっていた。
Yちゃんだった。
一人置いてけぼりにしたことに気づき、
Yちゃんに駆け寄った。
不自由な手を握りしめ、2人でゴールした。
たくさんの拍手が聞こえた。
それが、Yちゃんとの最初の記憶である。
▼ それから5年後、
5年生のYちゃんは、隣の学級にいた。
5年生は2学級だったが、
女性担任の方が、Yちゃんのためだろうと
配慮した結果だった。
ところが、学級の雰囲気がよくなかった。
明らかにいじめと思われる行為が、くり返された。
担任は必死で指導した。
親御さんからは、たびたび苦情の訴えがあった。
1年の間、大きな改善が見られないまま過ぎた。
そこで、私の提案もあり、学校は、
教育委員会と相談の上で、大きな決断をした。
それは、6学年進級にあたり、学級編制替えはしないものの、
Yちゃんだけ、私の学級に編入させることだった。
当然、ご両親から同意を得た。
6年生の初日、Yちゃんと一緒に教室に行った。
「この学級は、みんな仲がいいから、
Yちゃんにもいいと思います。
だから、今日からYちゃんは、この学級の一員になります。
みんななら、Yちゃんと仲良くできると思います。
よろしくね。」
私の言葉に、どの子も表情が冴えなかった。
よそよそしさがあった。
若干の不安がよぎった。
だが、私の学級には、Yちゃんの幼友達がいた。
もの静かだが、気配りのできる子だった。
隣り同士の席にし、Yちゃんのお世話を頼んだ。
明るい表情で、Yちゃんに声をかけてくれた。
その時、Yちゃんは一瞬ニコッとした。
▼ 6月に2泊3日の宿泊学習・『日光移動教室』が、
予定されていた。
5年生の夏休みに行った宿泊学習は、
不参加だったYちゃんである。
だからこそ、6年生では「何がなんでも!」と、
私は意気込んだ。
しかし、3日間にわたる校外学習である。
歩行移動も多く、長時間であった。持ち物も多い。
Yちゃんには介助が必要だった。
今とは違い、区教委には、宿泊学習に、
介助員を派遣する制度がなかった。
そこで、私は、親御さんに引率をお願いした。
さらに、子どもが宿泊する区の施設に、
特例として親御さんの同宿許可を求めた。
そのため、校長先生は何度も区役所に出向いてくれた。
それまでの5年間を通し、
親御さんには学校への不信感があった。
それでも、私はくり返しYちゃんの参加を熱望し、
協力をお願いした。
出発の数日前、
「仕事の都合が付いたので」と連絡が入り、
お父さんの引率参加が決まった。
第1日目、子ども達は大きなリュックを背に、
電車に乗り込んだ。
その最後尾に、Yちゃんと、
2人分のリュックを背負ったお父さんがいた。
朝、挨拶を交わしたが、車内でも口の重い方だった。
宿舎に着いた午後、計画通り『霧降の滝』まで行った。
今と違い、滝壺まで降りることができた。
往復1時間はかかったろうか、記憶は曖昧だ。
急傾斜を降りて、そこを登って戻る難コースだ。
Yちゃんには、絶対に無理だった。
「この辺りで待っていて下さい。
1時間位で戻りますから。」
滝壺への降り口付近で、お父さんにそう伝え、
私は、子ども達を先導した。
危険を伴うコースに私は神経を使った。
Yちゃんは、お父さんがいるので、
全く心配しなかった。
滝壺で、若干時間を取り、今度は登りだ。
きつい登りが続いた。
その中間付近で、Yちゃんとお父さんに出会った。
お父さんは、表情を変えずに言った。
「もう少し降りてみます。
2人で宿舎に戻りますから、お先にどうぞ。」
すっかり安心して、私たちは宿舎へ戻った。
それから1時間以上が過ぎてから、
2人は林道を戻ってきた。
私一人、玄関で迎えた。
「滝壺、見た。」
Yちゃんの笑顔は初めてだった。
ビックリする私に、これまたお父さんが明るく言った。
「娘が、見たいと言うもんですから。」
「でも、登りは・・・。」と、口ごもる私に、
「おんぶしてもらった。」
「そう、よかったね・・・。」
突然、熱いものがこみ上げてくるのを必死でこらえた。
大人一人でも、あの登りはきつい。
そこを、右腕が不自由な6年生を背負って・・・。
「娘が見たいと・・・。」
その言葉が、何度も心で響いた。
「先生、こんないい機会を頂き、
ありがとうございます。」
夕食の時、隣りの席で、
お父さんが静かに頭を下げた。
「とんでもない。Yちゃんへの深い愛情に、
私が励まされました。」
涙がこぼれそうで、私はその言葉が言えず、
ただニコッとした。
2日目も3日目も、2人は楽しげだった。
男子も女子もは、そんな2人が気になり、
時折振り向いていた。
▼ 夏休みが終わり、
半月程したころだったと記憶している。
昼休み後のそうじの時間だ。
Yちゃんのお世話をお願いした子など女子5人ほどが、
たまたま職員室にいた私のところへ、
物凄い剣幕でやって来た。
「先生、男子がY菌、Y菌と言って、
Yちゃんが触ったほうきを使わないんです。」
「そんなのやめてと言っても、やるんです。」
「ほうきだけじゃないよ。Yちゃんの机も動かさないし、
Yちゃんに近づかない子もいます。」
「Yちゃん、すごくかわいそうです。」
次々に怒りを訴える子ども達だった。
私なりに気にかけていたことだったが、
気づいてやれなかった。
その日の帰りの会、
私は全員の子を前で、話し始めた。
“Y菌と言って、Yちゃんを避けることは、
良くない。”
“Yちゃんを含めて、仲良くしてこそ、
いい学級と胸張れるのに。”等々、熱く語りかけた。
そして、
「みんなが、Y菌Y菌と言って避けているYちゃんだけど、
みんなと同じように、Yちゃんも、
嬉しいとか、楽しいとか、悲しいとか、辛いとか、
そんな心を持っているんだ。
Y菌と言われ続けたYちゃんの気持ちを、
想像してごらん。」
そこまで話した時だ。
学級で一番の人気者で、厚い信頼を集めていた
男子のリーダーの一人、
N君が、突如挙手をして、立ち上がった。
私は話をやめた。
全員が、N君に注目した。少しの静寂があった。
次の瞬間、N君は真顔でYちゃんに体を向けた。
「Yさん、ごめんなさい。
僕は、Yさんの心の中を考えないで、
YさんをY菌と言いました。
本当にごめんなさい。
僕が悪い。本当に僕が悪い。
もう決して言いません。Yさん、許してください。」
N君は、両手を膝にあて、深々と頭をさげた。
そして、上げようとしなかった。
それを見て、男子が次々と立ち上がり、
あやまりの言葉と一緒に頭を下げた。
私は、Yちゃんに近寄り、
しっかりと目を見て訊いた。
「Yちゃん、みんなを許してあげてはどう?」
Yちゃんは、うなずいてくれた。
私は、思わずYちゃんの頭をなでた。
「辛い思いをさせて、ごめんね。」
また、言葉にならなかった。
「明日からのみんなを、私は信じるね。」
それだけ言うのが、精一杯だった。
その日を境に、学級の雰囲気が変わった。
▼ 正月が過ぎ、卒業文集作りが佳境に入った。
Yちゃんは、文字が苦手だった。
何人もの友だちから手助けを受け、
それでも自筆で、ページを完成させた。
多くはひらがなだった。
その作文には、こんな一文があった。
「わたしは、これからもみんなにやさしくします。
やさしくすると、わたしもやさしくしてもらえるからです。」
ある日の放課後、お楽しみ会のために、
紙で輪飾りを作った。のりづけの行程が始まった。
その担当になったYちゃんだったが、上手く作れなかった。
机に向かったまま、手を止め、一人ボロボロと涙をこぼした。
数人の女子が手を貸そうと近寄った。
でも、「私の仕事だから、自分で作りたいの。」
そう言い切り、唇をかんだ。
1時間近くかけて、1メートル位、輪をつなぎ合わせた。
机は、ところどころにのりが付いていた。
同じ係の子が、Yちゃんの輪飾りを教室の真ん中に張った。
その場面と卒業文集の一文が、私には重なった。
35年も前の1年間だが、
教師として大切なことを学ばせてもらった。
『だて歴史の杜公園』脇の道にある 立て札
右腕は、Vの字のまま脇腹近くにあって、
自力では動かせなかった。
右足は、つま先立ちの状態だったが、
それを引きずるようにしながらも、歩行ができた。
Yちゃんが入学した5月に、運動会があった。
私は、高学年の担任だった。
その年の職員競技は、『借り物競走』。
職員5人1組で走り出した途中に、カードが置いてある。
拾ったカードに書いてある物を借りて、ゴールするのだ。
私が手にしたカードには、“1年1組の子ども全員”とあった。
児童席に走り、1年1組の全員を引き連れてゴールした。
無事にゴールインと思ったが、
はるか先で、女の子が一人足を引きずりながら、
ゴールに向かっていた。
Yちゃんだった。
一人置いてけぼりにしたことに気づき、
Yちゃんに駆け寄った。
不自由な手を握りしめ、2人でゴールした。
たくさんの拍手が聞こえた。
それが、Yちゃんとの最初の記憶である。
▼ それから5年後、
5年生のYちゃんは、隣の学級にいた。
5年生は2学級だったが、
女性担任の方が、Yちゃんのためだろうと
配慮した結果だった。
ところが、学級の雰囲気がよくなかった。
明らかにいじめと思われる行為が、くり返された。
担任は必死で指導した。
親御さんからは、たびたび苦情の訴えがあった。
1年の間、大きな改善が見られないまま過ぎた。
そこで、私の提案もあり、学校は、
教育委員会と相談の上で、大きな決断をした。
それは、6学年進級にあたり、学級編制替えはしないものの、
Yちゃんだけ、私の学級に編入させることだった。
当然、ご両親から同意を得た。
6年生の初日、Yちゃんと一緒に教室に行った。
「この学級は、みんな仲がいいから、
Yちゃんにもいいと思います。
だから、今日からYちゃんは、この学級の一員になります。
みんななら、Yちゃんと仲良くできると思います。
よろしくね。」
私の言葉に、どの子も表情が冴えなかった。
よそよそしさがあった。
若干の不安がよぎった。
だが、私の学級には、Yちゃんの幼友達がいた。
もの静かだが、気配りのできる子だった。
隣り同士の席にし、Yちゃんのお世話を頼んだ。
明るい表情で、Yちゃんに声をかけてくれた。
その時、Yちゃんは一瞬ニコッとした。
▼ 6月に2泊3日の宿泊学習・『日光移動教室』が、
予定されていた。
5年生の夏休みに行った宿泊学習は、
不参加だったYちゃんである。
だからこそ、6年生では「何がなんでも!」と、
私は意気込んだ。
しかし、3日間にわたる校外学習である。
歩行移動も多く、長時間であった。持ち物も多い。
Yちゃんには介助が必要だった。
今とは違い、区教委には、宿泊学習に、
介助員を派遣する制度がなかった。
そこで、私は、親御さんに引率をお願いした。
さらに、子どもが宿泊する区の施設に、
特例として親御さんの同宿許可を求めた。
そのため、校長先生は何度も区役所に出向いてくれた。
それまでの5年間を通し、
親御さんには学校への不信感があった。
それでも、私はくり返しYちゃんの参加を熱望し、
協力をお願いした。
出発の数日前、
「仕事の都合が付いたので」と連絡が入り、
お父さんの引率参加が決まった。
第1日目、子ども達は大きなリュックを背に、
電車に乗り込んだ。
その最後尾に、Yちゃんと、
2人分のリュックを背負ったお父さんがいた。
朝、挨拶を交わしたが、車内でも口の重い方だった。
宿舎に着いた午後、計画通り『霧降の滝』まで行った。
今と違い、滝壺まで降りることができた。
往復1時間はかかったろうか、記憶は曖昧だ。
急傾斜を降りて、そこを登って戻る難コースだ。
Yちゃんには、絶対に無理だった。
「この辺りで待っていて下さい。
1時間位で戻りますから。」
滝壺への降り口付近で、お父さんにそう伝え、
私は、子ども達を先導した。
危険を伴うコースに私は神経を使った。
Yちゃんは、お父さんがいるので、
全く心配しなかった。
滝壺で、若干時間を取り、今度は登りだ。
きつい登りが続いた。
その中間付近で、Yちゃんとお父さんに出会った。
お父さんは、表情を変えずに言った。
「もう少し降りてみます。
2人で宿舎に戻りますから、お先にどうぞ。」
すっかり安心して、私たちは宿舎へ戻った。
それから1時間以上が過ぎてから、
2人は林道を戻ってきた。
私一人、玄関で迎えた。
「滝壺、見た。」
Yちゃんの笑顔は初めてだった。
ビックリする私に、これまたお父さんが明るく言った。
「娘が、見たいと言うもんですから。」
「でも、登りは・・・。」と、口ごもる私に、
「おんぶしてもらった。」
「そう、よかったね・・・。」
突然、熱いものがこみ上げてくるのを必死でこらえた。
大人一人でも、あの登りはきつい。
そこを、右腕が不自由な6年生を背負って・・・。
「娘が見たいと・・・。」
その言葉が、何度も心で響いた。
「先生、こんないい機会を頂き、
ありがとうございます。」
夕食の時、隣りの席で、
お父さんが静かに頭を下げた。
「とんでもない。Yちゃんへの深い愛情に、
私が励まされました。」
涙がこぼれそうで、私はその言葉が言えず、
ただニコッとした。
2日目も3日目も、2人は楽しげだった。
男子も女子もは、そんな2人が気になり、
時折振り向いていた。
▼ 夏休みが終わり、
半月程したころだったと記憶している。
昼休み後のそうじの時間だ。
Yちゃんのお世話をお願いした子など女子5人ほどが、
たまたま職員室にいた私のところへ、
物凄い剣幕でやって来た。
「先生、男子がY菌、Y菌と言って、
Yちゃんが触ったほうきを使わないんです。」
「そんなのやめてと言っても、やるんです。」
「ほうきだけじゃないよ。Yちゃんの机も動かさないし、
Yちゃんに近づかない子もいます。」
「Yちゃん、すごくかわいそうです。」
次々に怒りを訴える子ども達だった。
私なりに気にかけていたことだったが、
気づいてやれなかった。
その日の帰りの会、
私は全員の子を前で、話し始めた。
“Y菌と言って、Yちゃんを避けることは、
良くない。”
“Yちゃんを含めて、仲良くしてこそ、
いい学級と胸張れるのに。”等々、熱く語りかけた。
そして、
「みんなが、Y菌Y菌と言って避けているYちゃんだけど、
みんなと同じように、Yちゃんも、
嬉しいとか、楽しいとか、悲しいとか、辛いとか、
そんな心を持っているんだ。
Y菌と言われ続けたYちゃんの気持ちを、
想像してごらん。」
そこまで話した時だ。
学級で一番の人気者で、厚い信頼を集めていた
男子のリーダーの一人、
N君が、突如挙手をして、立ち上がった。
私は話をやめた。
全員が、N君に注目した。少しの静寂があった。
次の瞬間、N君は真顔でYちゃんに体を向けた。
「Yさん、ごめんなさい。
僕は、Yさんの心の中を考えないで、
YさんをY菌と言いました。
本当にごめんなさい。
僕が悪い。本当に僕が悪い。
もう決して言いません。Yさん、許してください。」
N君は、両手を膝にあて、深々と頭をさげた。
そして、上げようとしなかった。
それを見て、男子が次々と立ち上がり、
あやまりの言葉と一緒に頭を下げた。
私は、Yちゃんに近寄り、
しっかりと目を見て訊いた。
「Yちゃん、みんなを許してあげてはどう?」
Yちゃんは、うなずいてくれた。
私は、思わずYちゃんの頭をなでた。
「辛い思いをさせて、ごめんね。」
また、言葉にならなかった。
「明日からのみんなを、私は信じるね。」
それだけ言うのが、精一杯だった。
その日を境に、学級の雰囲気が変わった。
▼ 正月が過ぎ、卒業文集作りが佳境に入った。
Yちゃんは、文字が苦手だった。
何人もの友だちから手助けを受け、
それでも自筆で、ページを完成させた。
多くはひらがなだった。
その作文には、こんな一文があった。
「わたしは、これからもみんなにやさしくします。
やさしくすると、わたしもやさしくしてもらえるからです。」
ある日の放課後、お楽しみ会のために、
紙で輪飾りを作った。のりづけの行程が始まった。
その担当になったYちゃんだったが、上手く作れなかった。
机に向かったまま、手を止め、一人ボロボロと涙をこぼした。
数人の女子が手を貸そうと近寄った。
でも、「私の仕事だから、自分で作りたいの。」
そう言い切り、唇をかんだ。
1時間近くかけて、1メートル位、輪をつなぎ合わせた。
机は、ところどころにのりが付いていた。
同じ係の子が、Yちゃんの輪飾りを教室の真ん中に張った。
その場面と卒業文集の一文が、私には重なった。
35年も前の1年間だが、
教師として大切なことを学ばせてもらった。
『だて歴史の杜公園』脇の道にある 立て札
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