<その3>
高校を卒業するまで、『鉄の町・室蘭』で育った。
あの頃、最大の市街地は中央町だった。
いつも人が行き交い、活気があった。
その賑わいのど真ん中に、『丸井今井デパート室蘭店』があった。
私たちは、そのデパートを「丸井さん」と呼んだ。
年に何回かだが、そこへ買い物に行く時は、
「よそいきの服」で出掛けた。
さて、高校1年の初冬のことだ。
生徒会役員として、体育祭や学校祭を経験し、
その活動にもかなり慣れてきていた。
ある週の役員会の議題は、
『冷害に苦しむ農民への救済』だった。
私には、訳が分からなかった。
上級生の役員たちが、真顔で議論を始めた。
昭和39年(1964年)である。
その年、北海道は農作物が大冷害に見舞われた。
記録では、その被害総額は578億円だったとか。
役員会は、「高校生でも、何か困窮する農家へ手助けはできないか。」
そんな話し合いだった。
全く議論についていけなかった。
でも、農家が作物被害を受けている事実だけは分かった。
「俺たちでも、何かできることがあるはず・・。」
上級生たちは、知恵を出し合っていた。
しかし、私は『鉄の町』の子だ。
それまで何回か、汽車の窓から田んぼや畑を見た。
だが、あぜ道を歩いたことも、農家を訪ねたこともなかった。
農家の暮らしぶりが、思い描けなかった。
私は、ただぼう然と話し合いに同席した。
意見を求められたが、何も言えないままだった。
長い会議の末、1つの行動が決まった。
私も、賛成に挙手をした。
それは、募金活動だった。
期間は1週間とした。
生徒会役員数名が交代で、「丸井さん」の前に立つ。
そこで、『冷害に苦しむ農民への募金』を呼びかけるのだ。
顧問の先生を通して、学校の許しを得た。
早速、募金箱を作った。
『冷害に苦しむ農民へ募金を』と書いたノボリも作った。
手製のメガホンも用意した。
誰もが初めての経験だった。
生徒会室で、何回か打ち合わせと練習をした。
募金初日は、役員全員で「丸井さん」の大きなウインドウ前に並んだ。
日暮れの早い季節だった。
チラチラと粉雪が舞っていた。
雪化粧した歩道に、「丸井さん」のきれいな明かりがこぼれていた。
生徒会長が、メガホンを握って、行き交う人々に訴えた。
私は、募金箱を抱える女子上級生の横に立った。
大声を張り上げて、
「冷害で苦しむ農家へ、募金をお願いします。」
そう呼びかける係だった。
ところが、それがなかなか言えなかった。
横並びの役員たちは、
それぞれ大声で募金を呼びかけはじめた。
「ねえ、がんばろう。」
募金箱を持った上級生の女子から励まされた。
その時、その募金箱に無言のまま小銭を入れて、
通り過ぎた方がいた。
最初の賛同者だった。
「間違ったことをしていない。
正しいことをしているんだ。
胸を張っていいんだ。」
体の芯が熱くなっていった。
「ありがとうございます。」
2人で、一緒に大声を張り上げた。
そしてついに、私は、
「冷害で苦しむ農家へ、募金をお願いします」。
何度も何度も、通行人にくり返し訴えていた。
募金活動は、予定より1週間延長して続けられた。
役員以外の生徒からも、活動に加わる者が現れた。
授業が終了するとすぐ、路線バスで中央町まで行った。
「丸井さん」のウインドウの明かりが、
寒さを忘れさせてくれた。
ノボリに募金箱、そして横一列で声を張り上げた。
あの募金活動が、どれだけのものだったのか、
それを立証することなどできない。
だが、高校時代の稚拙な正義だが、
仲間と共に、そんな行動をした私を誉めたいと、
今も思っている。
<その4>
これまた「丸井さん」にまつわる1コマである。
高校3年になると、大学進学と就職へ進路希望が決まっていった。
当時、私の高校は、進路によるクラス分けがなかった。
10月頃からだろうか、
私立大学の推薦入学がボチボチと決まり始めた。
そして、就職希望者の勤め先も1人、2人と分かった。
小学校から同じクラスになることが多かった女子がいた。
3年になっても、すぐ近くに机を並べた。
他の女子とはちょっと違った。
異性を意識せず、同じ話題で盛り上がった。
家が近いこともあり、
帰り道が一緒でもためらいがなかった。
その彼女の就職先が決まった。
それが、なんとあの「丸井さん」だった。
第1希望だったらしく、とびっきりの笑顔でクラス中に伝えた。
私も、嬉しかった。
まだ進路を決めかねていた私だったが、刺激になった。
そして、冬休みだ。
私は、大学受験を決め、猛勉強を始めていた。
その頃、彼女は、就職先の「丸井さん」で、
今で言う『実習研修』をしていた。
学校からの帰り道、
「実習は、ランジェリー売場になった。」
と聞いていた。
ここで私の無知さを笑ってほしい。
『ランジェリー』の意味が分かっていなかった。
その言葉の響きから、何か洋風な素敵な売場を想像した。
「丸井さんのランジェリー売場」を、色々と妄想し、
興味がわいた。
だから、受験勉強の息抜きを兼ねて、その売り場へ行き、
ついでに実習中の彼女を激励しようと思った。
正月明けの平日だった。
バスに乗り、「丸井さん」まで行った。
すぐに案内所のカウンターで訊いた。
「ランジェリー売場は、2階です。
エレベーターで上がって左手にございます。」
お化粧をした制服の女性が教えてくれた。
その表情が不思議そうだったが、気にかけなかった。
行った先のマネキンはどれも、透けるような女性用の下着姿だった。
陳列ケースに並んでいる物も、色こそ違うが同様の物ばかりだった。
それでも、私は鈍感だった。
売場の女店員に訊いた。
「あのー、ランジェリー売場って・・?」
「ここですけど、どうしました。」
突然、顔が真っ赤になるのが分かった。
胸の鼓動が尋常ではなくなった。
声が詰まった。
それでも、なんとか声に出した。
「ここで、高校生のNさんが実習していると聞いて・・」
精一杯だった。
「ああ、今日はお休み。」
女店員は、そう言って離れていった。
「お休み」に安堵した。
同時に、居てはいけない所にいることに慌てた。
急いで「丸井さん」を飛び出した。
大きく息をはき、心を落ち着かせた。
冬休みが終わった教室に、彼女がいた。
正直にありのままを伝えた。
すると、もう1人、そこを訪ねた男子がいた。
ホッとした。
でも、
「ランジェリー売場を知らないなんて、男はダメね」。
彼女にサラッと笑われた。
また胸の鼓動が、尋常ではなくなった。
まさに『青春の門前』と言える出来事だ。
推定樹齢135年 銀杏の老木も寒々
≪次回ブログ更新予定は、12月15日(土)≫
高校を卒業するまで、『鉄の町・室蘭』で育った。
あの頃、最大の市街地は中央町だった。
いつも人が行き交い、活気があった。
その賑わいのど真ん中に、『丸井今井デパート室蘭店』があった。
私たちは、そのデパートを「丸井さん」と呼んだ。
年に何回かだが、そこへ買い物に行く時は、
「よそいきの服」で出掛けた。
さて、高校1年の初冬のことだ。
生徒会役員として、体育祭や学校祭を経験し、
その活動にもかなり慣れてきていた。
ある週の役員会の議題は、
『冷害に苦しむ農民への救済』だった。
私には、訳が分からなかった。
上級生の役員たちが、真顔で議論を始めた。
昭和39年(1964年)である。
その年、北海道は農作物が大冷害に見舞われた。
記録では、その被害総額は578億円だったとか。
役員会は、「高校生でも、何か困窮する農家へ手助けはできないか。」
そんな話し合いだった。
全く議論についていけなかった。
でも、農家が作物被害を受けている事実だけは分かった。
「俺たちでも、何かできることがあるはず・・。」
上級生たちは、知恵を出し合っていた。
しかし、私は『鉄の町』の子だ。
それまで何回か、汽車の窓から田んぼや畑を見た。
だが、あぜ道を歩いたことも、農家を訪ねたこともなかった。
農家の暮らしぶりが、思い描けなかった。
私は、ただぼう然と話し合いに同席した。
意見を求められたが、何も言えないままだった。
長い会議の末、1つの行動が決まった。
私も、賛成に挙手をした。
それは、募金活動だった。
期間は1週間とした。
生徒会役員数名が交代で、「丸井さん」の前に立つ。
そこで、『冷害に苦しむ農民への募金』を呼びかけるのだ。
顧問の先生を通して、学校の許しを得た。
早速、募金箱を作った。
『冷害に苦しむ農民へ募金を』と書いたノボリも作った。
手製のメガホンも用意した。
誰もが初めての経験だった。
生徒会室で、何回か打ち合わせと練習をした。
募金初日は、役員全員で「丸井さん」の大きなウインドウ前に並んだ。
日暮れの早い季節だった。
チラチラと粉雪が舞っていた。
雪化粧した歩道に、「丸井さん」のきれいな明かりがこぼれていた。
生徒会長が、メガホンを握って、行き交う人々に訴えた。
私は、募金箱を抱える女子上級生の横に立った。
大声を張り上げて、
「冷害で苦しむ農家へ、募金をお願いします。」
そう呼びかける係だった。
ところが、それがなかなか言えなかった。
横並びの役員たちは、
それぞれ大声で募金を呼びかけはじめた。
「ねえ、がんばろう。」
募金箱を持った上級生の女子から励まされた。
その時、その募金箱に無言のまま小銭を入れて、
通り過ぎた方がいた。
最初の賛同者だった。
「間違ったことをしていない。
正しいことをしているんだ。
胸を張っていいんだ。」
体の芯が熱くなっていった。
「ありがとうございます。」
2人で、一緒に大声を張り上げた。
そしてついに、私は、
「冷害で苦しむ農家へ、募金をお願いします」。
何度も何度も、通行人にくり返し訴えていた。
募金活動は、予定より1週間延長して続けられた。
役員以外の生徒からも、活動に加わる者が現れた。
授業が終了するとすぐ、路線バスで中央町まで行った。
「丸井さん」のウインドウの明かりが、
寒さを忘れさせてくれた。
ノボリに募金箱、そして横一列で声を張り上げた。
あの募金活動が、どれだけのものだったのか、
それを立証することなどできない。
だが、高校時代の稚拙な正義だが、
仲間と共に、そんな行動をした私を誉めたいと、
今も思っている。
<その4>
これまた「丸井さん」にまつわる1コマである。
高校3年になると、大学進学と就職へ進路希望が決まっていった。
当時、私の高校は、進路によるクラス分けがなかった。
10月頃からだろうか、
私立大学の推薦入学がボチボチと決まり始めた。
そして、就職希望者の勤め先も1人、2人と分かった。
小学校から同じクラスになることが多かった女子がいた。
3年になっても、すぐ近くに机を並べた。
他の女子とはちょっと違った。
異性を意識せず、同じ話題で盛り上がった。
家が近いこともあり、
帰り道が一緒でもためらいがなかった。
その彼女の就職先が決まった。
それが、なんとあの「丸井さん」だった。
第1希望だったらしく、とびっきりの笑顔でクラス中に伝えた。
私も、嬉しかった。
まだ進路を決めかねていた私だったが、刺激になった。
そして、冬休みだ。
私は、大学受験を決め、猛勉強を始めていた。
その頃、彼女は、就職先の「丸井さん」で、
今で言う『実習研修』をしていた。
学校からの帰り道、
「実習は、ランジェリー売場になった。」
と聞いていた。
ここで私の無知さを笑ってほしい。
『ランジェリー』の意味が分かっていなかった。
その言葉の響きから、何か洋風な素敵な売場を想像した。
「丸井さんのランジェリー売場」を、色々と妄想し、
興味がわいた。
だから、受験勉強の息抜きを兼ねて、その売り場へ行き、
ついでに実習中の彼女を激励しようと思った。
正月明けの平日だった。
バスに乗り、「丸井さん」まで行った。
すぐに案内所のカウンターで訊いた。
「ランジェリー売場は、2階です。
エレベーターで上がって左手にございます。」
お化粧をした制服の女性が教えてくれた。
その表情が不思議そうだったが、気にかけなかった。
行った先のマネキンはどれも、透けるような女性用の下着姿だった。
陳列ケースに並んでいる物も、色こそ違うが同様の物ばかりだった。
それでも、私は鈍感だった。
売場の女店員に訊いた。
「あのー、ランジェリー売場って・・?」
「ここですけど、どうしました。」
突然、顔が真っ赤になるのが分かった。
胸の鼓動が尋常ではなくなった。
声が詰まった。
それでも、なんとか声に出した。
「ここで、高校生のNさんが実習していると聞いて・・」
精一杯だった。
「ああ、今日はお休み。」
女店員は、そう言って離れていった。
「お休み」に安堵した。
同時に、居てはいけない所にいることに慌てた。
急いで「丸井さん」を飛び出した。
大きく息をはき、心を落ち着かせた。
冬休みが終わった教室に、彼女がいた。
正直にありのままを伝えた。
すると、もう1人、そこを訪ねた男子がいた。
ホッとした。
でも、
「ランジェリー売場を知らないなんて、男はダメね」。
彼女にサラッと笑われた。
また胸の鼓動が、尋常ではなくなった。
まさに『青春の門前』と言える出来事だ。
推定樹齢135年 銀杏の老木も寒々
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