福山・鞆の浦 ① ~坂本龍馬のいた風景
福山市の鞆の浦は、坂本龍馬と深い関わりがある街だ。
1867年4月23日、坂本龍馬が率いる海援隊の船「いろは丸」と紀州藩の船「明光丸」が鞆沖合で衝突し、いろは丸が沈没してしまった事件「いろは丸事件」が起き、鞆の浦は日本で最初の海難審判事故の舞台となった。
江戸幕府の御三家でもある紀州藩を相手に坂本龍馬は政治力、交渉能力、そして広範囲な人脈を駆使し、最終的には国際法の「万国公法」を持ち出し紀州藩側の過失を追及し8万両(20億とも40億とも言われる)という膨大な賠償金を得た。
「いろは丸事件」をきっかけに坂本龍馬をはじめとする関係者たちは鞆の浦に上陸。
廻船問屋を営んでいた「桝屋清右衛門宅」に当時、龍馬が偽名を使って隠れ住んでいた部屋が現存する。
当時のことだから、命を狙われていたことだろう。
また、「いろは丸展示館」では、海難事故がどのような経緯で起きたのかを分かりやすく展示されている。
沈没した「いろは丸」の発掘調査の様子や、発掘調査で引き揚げられた沈没船の残骸も展示されていた。
坂本龍馬が紀州藩の船長と賠償交渉を始めたのがこの場所、龍馬交渉跡(御舟宿いろは)である。
龍馬は「いろは丸」には銃400丁、銃火器35630両、金塊など478696両198文を積んでいたと主張していたが、現在の調査の段階では、まだそれらは一つも見つかっていない。
もしかしたら、海の底にお宝が眠っているのか?それとも龍馬の吹っかけだったのか?
その7か月後に京都で暗殺された龍馬の胸中は知る由もない。
そんな「いろは丸」を再現した「平成いろは丸」が、鞆の浦から仙酔島を行き来している。
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