徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

公子の日記(昭和5年5月25日)

2010-06-19 09:01:12 | その他
 今日遺されている海達公子の日記を読むと、いろんなことをうかがい知ることができる。例えば下の日記は昭和5年、公子が14歳、高瀬高等女学校の2年生の時のものだ。
 土曜日、家族ぐるみの付き合いがあった矢野さん(荒尾第二小学校正門傍・矢野文具店)宅に泊まり、日曜日は北原白秋の講演会が高瀬(現玉名市)の講堂で開かれるので、高瀬へ行き、午前中は女学校で時間をつぶしたようだ。本来なら父松一も同行すべきところだが、所用で熊本へ行ったとあるのは、この頃は借金に追われていて、それどころではなかったのかもしれない。北原白秋とは、この3週間ほど前に矢部川駅(現瀬高駅)に出迎えて初めて逢い、その翌日には熊本放送局(現NHK熊本)に同行している。白秋は風邪でもひいたのか喉の調子が悪かったようだ。白秋の秘書役を務めていた與田準一とは旧知の間柄で、講演後、白秋が南関の生家に帰るので、與田は父親と一緒に来ないかと誘っている。30日の朝に矢部川へというのは、おそらく白秋一家が東京へ帰るので見送りを促しているのであろう。

昭和五年五月二十五日(日)晴
 矢野さん方にとまってゐました。七時に起き、ごはんをよばれて歸って十時の汽車で學校に走るけいこに行きました。だれもしなさらないので私もせず、蓄音機を聞き、ぴんぽんをしました。父ちゃんは熊本に行ってゐなさいました。私達は晝から高瀬の講堂に白秋さんの話を聞きに行きました。聲をいためてゐなさいました。歸りに「父ちゃんに南關に行くからおいで、三十日の朝、矢部川に來なさるように」と與田先生がことづけなさいました。私が高瀬から乗って汽車で父ちゃんは下りなさったので南關にすぐ行きなさるように言いました。