
かつて熊本は相撲の聖地だった。それは相撲の宗家である吉田司家があったからである。僕らの子どもの頃、新横綱が誕生すると藤崎八旛宮の参道沿いにあった吉田司家で免許状の授与が行われていた。吉田司家からほど近い白川公園で毎年行なわれる熊本巡業は県内外から見物に来る人たちで賑わった。吉田司家はもともと越前の国の武家。後鳥羽天皇(平安末期-鎌倉初期)の時代、初代の吉田家次が節会相撲の行司官に任ぜられ、以後、相撲の宗家として代々「追風」の号を名乗った。肥後細川4代の細川綱利公の時、招かれて熊本藩に仕えた。横綱への免許授与は第4代横綱の谷風梶之助(右絵図)から第40代東富士欽壱までの160年間、37人にのぼる。しかし、吉田司家24代追風・長善氏の時の吉田司家の内紛がもとで日本相撲協会とは徐々に疎遠になり、現在では事実上断絶した形となったことは残念だ。
実はこの24代当主・吉田長善氏は僕の高校の大先輩でもあり、わが済々黌水球部の初代部長でもある。早大の史学科卒業後、母黌済々黌に勤め社会科を担当、公私ともに多忙ななか、水球部の部長としても選手たちを物心両面から支えていただいたという。小堀流踏水術の練達でもあり、後に済々黌水球部を高校水球のトップレベルに押し上げる基礎を築いた功績は大きい。それだけに吉田司家の文字を目にすると複雑な想いが交錯するのである。

かつて藤崎八旛宮の参道沿いに吉田司家があった。

今も跡地には記念のプレートが掲示されている。
本條秀美さんの名調子で「相撲甚句」をひとつ・・・