昨夜、げんぞーさんが熊本民謡おてもやんの生みの親である永田イネさんの誕生日の宴を開くというご案内をFacebookに載せておられたが、都合が悪くて参加できなかったのは残念だった。
ところで、今日では「おてもやん生みの親=永田イネ説」が熊本でも定説となったが、実はそうなったのは意外と新しいことなのである。僕らが子供の頃も「おてもやん」は最も親しまれた熊本民謡だったが、生みの親の実名を聞いたことはない。昭和57年(1982)というから僕が既に30代の半ばになっていた頃、発行された「熊本県大百科事典」を見ても「おてもやん」の項目の説明に「永田イネ」の名前は出てこない。記述者の小川芳宏さん(現熊日相談役・熊本さわぎ等の作詞家)は「唄が完成したのは幕末の頃というのが一応の定説となっている。」と説明している。つまり慶応元年(1865)生まれの永田イネさんではありえないということになる。いつ頃から「永田イネ説」が出てきて定説となって行ったのかはわからないが、それまではいろんな説があったらしい。わが尊敬する荒木精之先生などは「勤皇党の忍び唄ではないか」という、ちょっとうがち過ぎとも思える説まであるくらいだ。
しかし、この唄の歌詞をよく読んでいくと舞台は古町と春日村の一帯であり、そこで生まれ育ち、そして暮らした永田イネだからこそ、この歌詞になったのではないかと思われる。特に僕が注目するのは「川端町つぁんきゃあめぐろ」のくだりと「くまんどんの夜聴聞詣り」のくだりの二箇所だ。「きゃあめぐろ」というのはどこか(多分、普賢寺)へ行くときに回り道をしようという意味だと思うので地元の人間しかこんな歌詞は作らないだろう。もうひとつは「くまんどん」という言い方だ。おそらく当時は城下町の古町と、外れの飽田郡春日村との間には厳然とした区別があったものと思われる。つまり「くまもと」と呼ぶのはまだ城下町に限られていたのではないだろうか。実は僕の祖母(明治16年生)がそんなことを言っていたような憶えがある。いかにも春日村に住む人たちが多少の揶揄を込めて言いそうな気がするのである。いずれにせよ、今後「永田イネ説」が覆ることはないだろう。
ところで、今日では「おてもやん生みの親=永田イネ説」が熊本でも定説となったが、実はそうなったのは意外と新しいことなのである。僕らが子供の頃も「おてもやん」は最も親しまれた熊本民謡だったが、生みの親の実名を聞いたことはない。昭和57年(1982)というから僕が既に30代の半ばになっていた頃、発行された「熊本県大百科事典」を見ても「おてもやん」の項目の説明に「永田イネ」の名前は出てこない。記述者の小川芳宏さん(現熊日相談役・熊本さわぎ等の作詞家)は「唄が完成したのは幕末の頃というのが一応の定説となっている。」と説明している。つまり慶応元年(1865)生まれの永田イネさんではありえないということになる。いつ頃から「永田イネ説」が出てきて定説となって行ったのかはわからないが、それまではいろんな説があったらしい。わが尊敬する荒木精之先生などは「勤皇党の忍び唄ではないか」という、ちょっとうがち過ぎとも思える説まであるくらいだ。
しかし、この唄の歌詞をよく読んでいくと舞台は古町と春日村の一帯であり、そこで生まれ育ち、そして暮らした永田イネだからこそ、この歌詞になったのではないかと思われる。特に僕が注目するのは「川端町つぁんきゃあめぐろ」のくだりと「くまんどんの夜聴聞詣り」のくだりの二箇所だ。「きゃあめぐろ」というのはどこか(多分、普賢寺)へ行くときに回り道をしようという意味だと思うので地元の人間しかこんな歌詞は作らないだろう。もうひとつは「くまんどん」という言い方だ。おそらく当時は城下町の古町と、外れの飽田郡春日村との間には厳然とした区別があったものと思われる。つまり「くまもと」と呼ぶのはまだ城下町に限られていたのではないだろうか。実は僕の祖母(明治16年生)がそんなことを言っていたような憶えがある。いかにも春日村に住む人たちが多少の揶揄を込めて言いそうな気がするのである。いずれにせよ、今後「永田イネ説」が覆ることはないだろう。