徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

勘三郎は言う 「歌舞伎って・・・」

2012-12-06 19:36:44 | 音楽芸能
 テレビ各局の朝のニュースワイド番組では軒並み、昨日亡くなった十八代目中村勘三郎さんを惜しむ内容に多くの時間を費やしていた。その中に勘三郎さんが生前受けたインタビューで、とても興味深いものがあった。それは「コクーン歌舞伎」などの斬新な取り組みに関する質問に対する彼の答えだった。

 「もし、江戸時代にギターやヒップホップがあったら、間違いなく歌舞伎に取り入れているよ。歌舞伎ってそういうものなんだよ」

 この勘三郎さんの弁を聴きながら、僕はこのブログに9月6日に投稿した記事のことを思い出した。それは、大正11年に出版された「江戸時代創始期」(西村真次著)という古書に書かれていた「歌舞伎踊りの発生」という記述のことだった。これによれば今日の歌舞伎の原点である出雲阿国が始めたと伝えられる歌舞伎踊りに、既に欧羅巴(ヨーロッパ)の影響が見られるという極めて興味深い記述がある。その内容を要約すると

――歌舞伎踊りの内容をなした歌詞は、早歌を少しもじったようなものであったろう。「歌舞伎草紙絵巻」には、「かねきき」、「して」、「いなばをどり」、「忍びをどり」、「ふじのをどり」などと題する歌詞が出ている。それらは謡曲に比べれば人間味の強い、現代式の、血と肉とに触れたエロチックなものであった。歌謡の形式は大分外国のものを取り入れ、囃子などはそのまま用いていたらしく、振りもまたヨーロッパの様式をいくらか取り入れたと思わせる史料が少なくない。彼女(出雲阿国)の首からかけていた水晶の数珠にすら、十字型の物がぶら下がっていて、それを輸入品――コンタツと見ることができるのであった。ポルトガルなどの人が喜んでこれを見物したというのを見ても、そこには何らかの共鳴を彼らに与えるものがあったと思われる。

 つまり歌舞伎というのは、「傾き(かぶき)踊り」と呼ばれ、初代中村(猿若)勘三郎が活躍していた草創期から、新しいものを積極的に取り入れる体質があり、そのDNAは今なお受け継がれているということなのだろう。

※早歌:神楽歌の一種
※コンタツ:ポルトガル語のcontas、キリシタンが用いる数珠、ロザリオ、コンタス


首にロザリオをかけて踊るザ・わらべ