むかし/\京に歌舞妓のはじまりしは、出雲神子に、おくにといへるもの、五条のひがしの橋づめにて、やゝ子をどりといふ事をいたせり。其後北野の社の東に、舞台をこしらへ、念仏をどりに、哥をまじへ、ぬり笠にくれなゐのこしみのをまとひ、鳧鐘を首にかけて、笛・つゞみに拍子を合せて、をどりけり。其時は三味線はなかりき。かくて三十郎といへる狂げん師を夫にまうけ、伝介といふものをかたらひて、三条縄手の東のかた、祇園の町のうしろに舞台をたて、さま/"\に舞をどる三十郎が狂言、伝介が糸よりとて、 京中にこれにうかされて、見物するほどに、六条の傾城町より、佐渡嶋といふもの、四条川原に舞台をたて、けいせい数多出して、舞をどらせけり。
これは江戸時代前期の万治年間(1658年~1660年)に、浄土真宗の僧侶で仮名草子作家でもあった浅井了意(あさいりょうい)という人が書いた「東海道名所記」の中に出てくる歌舞伎の草創期についての記述である。この頃は既に出雲阿国も初代中村勘三郎も世を去っていたと思われるが、阿国や勘三郎の生きた時代と大部分が重なる浅井了意が書き残した話だけに、とてもリアリティを感じさせ興味深い。
これは江戸時代前期の万治年間(1658年~1660年)に、浄土真宗の僧侶で仮名草子作家でもあった浅井了意(あさいりょうい)という人が書いた「東海道名所記」の中に出てくる歌舞伎の草創期についての記述である。この頃は既に出雲阿国も初代中村勘三郎も世を去っていたと思われるが、阿国や勘三郎の生きた時代と大部分が重なる浅井了意が書き残した話だけに、とてもリアリティを感じさせ興味深い。