「瀬戸」という地名や町名は日本国中至るところにあるが、わが町にも「瀬戸坂」という名の坂がある。
そもそも「瀬戸」とは何ぞやというと、いくつかの辞書の解説を総合すると
「瀬戸(せと・せど)」とは「狭門 ・迫門 」とも表記され、海あるいは川の幅が狭くなっているところのこと。
ということになるようだ。
そこでわが町の「瀬戸坂」の由来についてあらためて現地を見ながら確かめてみた。僕が子供の頃から聞いているのは、坂が瀬戸に向かって降りているからそう呼ばれるようになったらしい。というわけでその瀬戸というのがどういうところだったのか。
瀬戸坂を真っすぐ降りて行くと潮音寺の脇を通って坪井川に突き当たる。この辺りの川はかつては淵になっていて、僕らが子供の頃は夏の絶好の川遊び場だった。一番下の大正7年頃の河川改修前の古地図を見ると、赤い点線の円の中心を貫いているのが瀬戸坂で、その右端の坪井川に接している辺りに「専徳寺」というお寺が見える。これが現在の「潮音寺」なのか経緯は未確認だが、その少し上流で二つに分流していた坪井川が合流している。これが瀬戸と呼ばれるようになった理由に関係しているような気がする。
この辺の坪井川流域の田畑をかつて「寺原田畑」と呼んでいた。「寺原田畑」はかつて海だったというのが地域住民の常識となっている。その証拠に周辺一帯には海に関係する地名がズラリと並ぶ。すなわち、「舟場」「津の浦」「打越」「永浦」等々。ところが、じゃあいったいいつ頃まで海だったのかというと、これがよくわからないのだ。有明海が内陸部まで入り込んだ時期というのは6千年も前の「縄文海進」や千年ほど前の「平安海進」などがあるが、縄文時代に、まるで和歌にでも出てきそうな地名がつくとは到底思えない。それでは「平安海進」の頃かというと、寺原田畑が海ということは今の熊本市は大部分が海に浸かっていたことになる。平安時代の熊本の歴史を調べてもこれまた腑に落ちない。ひとつの仮説としては、海が退いた後、低地が沼沢として残り、沼沢を海に見立てて地名をつけたのかもしれない。
ということから、古地図の坪井川合流点より上流地帯は一面の沼沢だった時代があり、それが合流地点から一本の川として幅が狭まったので「瀬戸」と呼んだのではないか。そんな気がしている。
瀬戸坂が坪井川に突き当たる地点(向こう岸から撮った写真)
大正7年の地図における瀬戸坂と坪井川
そもそも「瀬戸」とは何ぞやというと、いくつかの辞書の解説を総合すると
「瀬戸(せと・せど)」とは「狭門 ・迫門 」とも表記され、海あるいは川の幅が狭くなっているところのこと。
ということになるようだ。
そこでわが町の「瀬戸坂」の由来についてあらためて現地を見ながら確かめてみた。僕が子供の頃から聞いているのは、坂が瀬戸に向かって降りているからそう呼ばれるようになったらしい。というわけでその瀬戸というのがどういうところだったのか。
瀬戸坂を真っすぐ降りて行くと潮音寺の脇を通って坪井川に突き当たる。この辺りの川はかつては淵になっていて、僕らが子供の頃は夏の絶好の川遊び場だった。一番下の大正7年頃の河川改修前の古地図を見ると、赤い点線の円の中心を貫いているのが瀬戸坂で、その右端の坪井川に接している辺りに「専徳寺」というお寺が見える。これが現在の「潮音寺」なのか経緯は未確認だが、その少し上流で二つに分流していた坪井川が合流している。これが瀬戸と呼ばれるようになった理由に関係しているような気がする。
この辺の坪井川流域の田畑をかつて「寺原田畑」と呼んでいた。「寺原田畑」はかつて海だったというのが地域住民の常識となっている。その証拠に周辺一帯には海に関係する地名がズラリと並ぶ。すなわち、「舟場」「津の浦」「打越」「永浦」等々。ところが、じゃあいったいいつ頃まで海だったのかというと、これがよくわからないのだ。有明海が内陸部まで入り込んだ時期というのは6千年も前の「縄文海進」や千年ほど前の「平安海進」などがあるが、縄文時代に、まるで和歌にでも出てきそうな地名がつくとは到底思えない。それでは「平安海進」の頃かというと、寺原田畑が海ということは今の熊本市は大部分が海に浸かっていたことになる。平安時代の熊本の歴史を調べてもこれまた腑に落ちない。ひとつの仮説としては、海が退いた後、低地が沼沢として残り、沼沢を海に見立てて地名をつけたのかもしれない。
ということから、古地図の坪井川合流点より上流地帯は一面の沼沢だった時代があり、それが合流地点から一本の川として幅が狭まったので「瀬戸」と呼んだのではないか。そんな気がしている。
瀬戸坂
瀬戸坂が坪井川に突き当たる地点(向こう岸から撮った写真)
大正7年の地図における瀬戸坂と坪井川
なるほど、いい勉強になりました。
瀬戸内海といいますもの。今の今まで、そのことを意識せずにいましたがね。ありがとうございます。