新町の熊本市子ども文化会館から二の丸駐車場に向かって登る坂を法華坂(ほっけざか)と呼ぶ。この坂は熊本城内を通る豊前・豊後街道の一部でもあり、薩摩藩の参勤交代の行列もここを通過した時代もある。住江門から二の丸に入り、熊本藩の武家屋敷が立ち並ぶ中を通るので一触即発の状態になったこともあるという。一般の旅人も通っていたが、この法華坂はもの寂しいところだったらしく、「ノッペラポンの話」が肥後民話として残っている。小泉八雲の「怪談」の中の「貉(むじな)」と似た話だが、昔はこうした坂にまつわる話が各地にあるようだ。なお、坂の途中には明治9年に起きた「神風連の乱」を率いた 太田黒伴雄の終焉之地の碑がある。
坂の案内板には次のような説明が書かれている。
法華坂(ほっけざか)
この坂は、新一丁目御門から城内へ入る要衝に当る。坂の上にはもと天台宗の三宝院という寺があった。加藤清正は肥後半国の領主となった後、父弾正清忠菩提のため大坂に建立していた本妙寺を、この三宝院の跡に移した。法華宗(日蓮宗)の本妙寺が置かれたため、以後この坂を法華坂と呼ぶようになったと伝えている。
本妙寺は、慶長十九年(1614)に中尾山に移されたが、坂は昔のままの名で呼ばれている。
法華坂
坂の案内板には次のような説明が書かれている。
法華坂(ほっけざか)
この坂は、新一丁目御門から城内へ入る要衝に当る。坂の上にはもと天台宗の三宝院という寺があった。加藤清正は肥後半国の領主となった後、父弾正清忠菩提のため大坂に建立していた本妙寺を、この三宝院の跡に移した。法華宗(日蓮宗)の本妙寺が置かれたため、以後この坂を法華坂と呼ぶようになったと伝えている。
本妙寺は、慶長十九年(1614)に中尾山に移されたが、坂は昔のままの名で呼ばれている。
法華坂
500年以上続いた武士が支配する時代が終わるわけですから、士族の不平不満は大変なものだったんでしょうね。神風連の乱を始め、各地で士族の反乱が起こり、西南戦争へと繋がって行くわけですね。
坂には古より、この世とあの世の境界という考え方がありますので、坂にまつわる言い伝えや怪談などがありますね。
昔は人力のほかは運搬などにせいぜい牛馬を使うくらいですが、城づくりなどの細かい作業には人力しかなかったと思われます。寺の移築と簡単に言いますが、それは大変な労力を要したことでしょう。昔の人は凄いといつも思います。(^_^.)
一口に明治維新と言っても国が大荒れだったんですね。
私は最近、この手のテレビばかり観ています。
知らないことが多すぎて恥ずかしいです。
>父弾正清忠菩提のため大坂に建立していた本妙寺を、この三宝院の跡に移した。
国替えだけでも信じられくらいのエネルギーが費やされたと思いますが、トラックも重機も無かった時代によくそんなことが出来たと感心します。
逸話は自分の右の耳から入って左に抜けていくようですが、歴史散歩でも話せるようになりたいものです。
有難うございました。