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僕が熊本から防府へ転勤になったのは今から45年前の1976年5月だった。まだ工場建設途上であり、タイヤ部材をつくる前工程だけが完成していた。僕が所属する総務課の仕事はもっぱらタイヤ工場の操業開始に備えてソフト面の整備をすることだったが、その中の一つに地域社会に認知してもらうこと、そして受け入れてもらうことというテーマがあった。そのためわが上司が考えたのは地域のまつりに積極的に参加すること。そして間近に迫っていたのが「防府まつり総おどり」だった。課内で一番若手だった僕がその意を受けて準備に奔走することとなった。その頃は、第1次オイルショックの影響が残っており、まつりに参加するための予算など一切ない。地域のまつりに参加実績のある支店や工場から合わせて30人分の法被を貸してもらったり、関係先にお手伝いをお願いしたり、参加者の用品は自腹で準備していただいたりと、今から思うと相当無理なことをお願いしたと思う。それでも何とか30人を揃えておどりの列に加わることができ、防府市民の認知度を上げることができたのは何ものにも代えがたい喜びだった。それから45年経った今でも防府おどりへの参加は続いているらしい。風の便りでそんなことを聞くと、ささやかながら自分が防府にいた意味があったのかなと思う。