徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

嗚呼!北の富士さん

2024-11-21 15:28:13 | スポーツ一般
 元横綱北の富士さんが亡くなった。テレビで訃報を聞いてまず思い出したのは、若手の頃の屈託ない笑顔だった。あれは昭和40年1月、明治神宮でのことだった。その日、大学1年だった僕は、新横綱佐田の山の奉納土俵入りが行われることを知って、電車通学の途中、原宿で下車し明治神宮へ向かった。本殿前で待っていると、横綱佐田の山、太刀持ち北の富士、露払い金乃花が行司とともにやって来た。皆緊張の面持ちだったが、贔屓筋からの声でもかかったのか、北の富士だけが破顔一笑、大物ぶりを感じさせた。
 柏鵬時代が終盤にさしかかった頃だったが、彼の相撲人生は順風満帆ではなかった。所属する出羽の海部屋は佐田の山が親方である出羽海の娘と結婚して婿養子となり、出羽海部屋を継承することが決まっていたが、先代出羽海親方が生前、後継者に指名していた九重(元横綱千代の山)が不満を抱いて、独立を申し出た。分家独立不許という不文律があった出羽一門は、これを許すかわりに九重とその弟子北の富士(当時大関)らは破門となった。救いの手を差し伸べてくれた高砂親方(元横綱朝潮)のもとで高砂系の九重部屋として再出発する。部屋経営に困難が続き、弱小部屋の悲哀をかこっていた九重部屋も、昭和42年3月に北の富士が初優勝し、号泣する姿が相撲ファンの共感を呼んだ。
 昭和45年1月に玉乃島(後玉の海)との同時昇進で横綱になるのだが、玉の海は翌年10月、27歳の若さであっけなく世を去ってしまう。良きライバルであり親友でもあった北の富士が号泣する姿はテレビ視聴者の涙を誘った。
 昭和49年に引退後は、九重部屋を継いで千代の富士、北勝海の二人の横綱を育て上げたことは今さらいうまでもない。

 北の富士さんは喜怒哀楽のハッキリした人間臭い相撲人だったと思う。

 謹んで哀悼の意を表しますとともに ご冥福を心よりお祈り申し上げます(合掌)


昭和40年1月、明治神宮において横綱昇進の奉納土俵入りをする横綱佐田の山、太刀持ち北の富士、露払い金乃花