どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

長くつ下のピッピ

2019年10月08日 | 創作(外国)

     こんにちわ、長くつ下のピッピ/アストリッド・グレーン・作 イングリッド・ニイマン・絵 いしいとしこ・訳/徳間書店/2004年初版

 ピッピは力持ち。馬をもちあげ、サーカスでは怪力アドルフをたおし、二人組の泥棒は「あっちでふざけて、こっちでふざけて、ホイ、ホイ」と、タンスの上にほりなげてしまいます。泥棒たちが、おそろしくてなきだすと「たべものでもかってちょうだい」と、金貨を一枚あげるやさしいところもあります。

 一人暮らしですが、料理も掃除もお茶のこさいさい。空き家の「ごたごた荘」に引越ししてきたピッピは、隣家のトミーとアニカはさっそくお友だちになって、ごちそうです。

 頭に上に、われたたまごの黄身がペチョとついても「たまごの黄身って、髪の毛に、いいんだって」と気にとめません。

 たべるのもテーブルの上ではらばいになり、いすのうえの食べ物をたべたり、シャンプーは洗面器の中に、あたまごとジャプーンとつけ、耳に水が入ってもへいっちゃら。寝るとき、枕には足を乗せ、顔は布団の中と既成概念にもとらわれわれません。

 「ゆかにおりないあそび」も型破り。流しの上から、かまどのうえ、たきぎ入れの箱、帽子の棚によじ登って、テーブルの上に。

 でも、ちょっとだけ、にがてなことも?

 ちょっと嫌なことがあっても、落ち込んでも、自由で痛快なピッピにであえると、元気がもらえそうです。

     ピッピ、お買い物にいく/アストリッド・リンドグレーン・作 イングリッド・ニイマン・絵 いしいとしこ・訳/徳間書店/2015年

 学校が休みで、となりに住むトミーとアニカの兄弟が、<ごたごた荘>のピッピのところへやってきました。

 町でお買い物をすることにした三人。ピッピのくつ下は、かたっぽは黄色で、もうかたっぽは黒。大きな旅行カバンから金貨をひとつかみ、ポケットにいれます。

 帽子がどうしてもみつからないピッピは「わからずやの帽子さんね。あたしがお買い物からかえってきたときに、いっしょにいきたかったて泣いても、しらないわよ」と、部屋の中をめちゃくちゃにしている自分を反省するどころか、これは、おどし?

 自由奔放、型破りのピッピ。「そばかすでおこまりですか?」と書いてある化粧品屋さんで、「そばかすにこまっていない」というと、お店の人から、「顔中そばかすだらけじゃないの」といわれたピッピ。「もしも、そばかすがふえるぬりぐすりが、うまく手に入ったら、あたしんちへ、7,8こ おくってください」と、ちょっぴり皮肉で切り返し。

 お菓子屋さんでは、たくさんの子どもがガラス窓にはりついて、おいしそうなおかしをじっとみつめていました。

 ピッピの買い物のスケールは大きい。お菓子屋さんで、たのんだのは飴玉18キロ。「あめだまを18個でしょう」と、お店の人がいうと、もういちど「18キロ、ほしいの」といいます。キイチゴゼリーやボートの形をした黒い甘草入りのあめ3キロ。ペロペロキャンデイ60本、キャラメル72個、チョコレートを103本。となりのおもちゃ屋さんで荷台付きの車を買ってお菓子の袋をつみこむと「お菓子を食べたくない子はいる?」と大声。だれもいません。食べたい子ときくのが普通。ちょっといじわるなピッピ。でも本当は優しいんですけどね。

 「お菓子を食べたい子は?」というと、23人の子が前にでました。いよいよこの小さな町ではみたこともないお菓子の食べ放題がはじまり、はじまり。

 おもちゃ屋さんでは、子どもたちに「どれでも自分の欲しいおもちゃをえらんでいいわよと」というと、おもちゃ屋さんの中は、ほとんど空っぽに。お店の人がオカリナが倉庫に残っていたと、たくさんだしてくると、ピッピは子どもたち全員にオカリナを買います。

 みんないっしょにオカリナをふきましたから、お巡りさんからどなられ、子どもたちは家にかえりました。

 買い物はまだまだ続きます。「やーっ きーょーくー あら ここは、おくしゅりを買うところでなかった」と、薬局でお買い物。「おくしゅり4リットル」「百日咳と、くつずれと はらいたと、風疹と、あとエンドウ豆を鼻におしこんだときにきく薬」「家具をみがける薬」。

 何種類の薬を買ったあとは、8本のビンがあるけど、なんて無駄なことをするのかしらと、一番大きなビンにながしこみます。

 ごちゃまぜ薬を飲んで「元気になってきた感じ。とくにおしりのあたりが もりもり元気になってきたわ」とピッピ。ピッピは怖いもの知らずで頑丈です。

 型破りと思うのは、大人の常識からいうこと。ピッピにとっては、普通のことなんでしょうね。

 お金持ちのピッピ、お金の使い道もよーく、こころえています。自分のためだけにつかっていません。お金を持っていたら、こんなふうに使いたいもの。

 ピッピの絵本、第4弾といいます。

 ほかにもピッピ語録が満載です。

 

     ピッピ、公園でわるものたいじ/アストリッド・リンドグレーン・作 イングリッド・ニイマン・絵 いしいとしこ・訳/徳間書店/2018年第2版

 公園で わるものたちが おおあばれ。警察もお手上げという新聞の見出しをみたピッピが わるものたいじ。

 6人組ですが、あっというまにみんな縛って警察に通報です。

 公園でわるものがでてくるのをじっとまっているのも大変。ピッピは<ごたごた荘>を解体して公園で、家を組み立て引っ越し。

 ところがそこにやってきたのが灰色の服を着たおじさん。すぐにやめろと怒鳴り声をあげますが、まだ屋根ができていません。屋根がなくてどうするのと、おじさんを、かるがるともちあげ、動いている電車にほうりこんでしまいます。

 引っ越しパーテイをしているとうるさいわめき声や口笛。ゴロツキたちがやってきたのです。

 家を解体して、いとも簡単に組み立てるという発想は、ピッピならでは。

 ところでピッピは9歳。<ごたごた荘>で、一人暮らし。母親は亡くなって、父親も海にほうりだされ生死不明です。ごたごた荘は父親がたてたものでした。

 一緒に暮らすのはサルのニクソンとウマ。

 ゴロツキたちが全員捕まったあとで、子どもたちが公園にやってきて、ピッピの馬に乗ったり、ニルソンにあったり。二ルソンのしんせきの大きなゴリラも、はるばる南の島からやってきて、公園では子どものためのおまつりがありました。

 

・長くつ下のピッピ/リンドグレーン・作 大塚勇三・訳/岩波書店/1964年 

 出版されたのは1945年、それも話があまりに奔放で、あちこちでことわられやっと出版されたといいます。このあと「ピッピ船にのる」「ピッピ南の島へ」が刊行されているようです。

 1945年以前といえば、日本では軍国主義一色。当時の日本では、とても考えられる内容ではありません。74年たった今でも、まったく古さを感じさせないどころが、こうした人物像がそれから今にいたるまで描かれていないことが逆に不思議です。

 自由奔放、型破りなピッピですが、わたしたちが、いかに既成概念にがんじがらめになっていることか。

 ところで力持ちで、お金もいっぱい、その上、身軽なピッピはまだ九歳。

 母は亡くなり、父親は船から投げ出され行方不明で一人暮らし。学校にいっていませんから、ちょっと字を書くのは苦手。

 ごたごた荘にすんでいます。ごたごた荘は、父親が残してくれたもの。

 ピッピは愛称。本名はぐっと長く、ピッピロッタ・タベルシナジナ・カーテンアケタ・ヤマノハッカ・エフライフノムスメ・ナガクツシタ。

 本名、原文のままでしょうか。タベルシナジナ(食べる品々)、カーテンアケタ(カーテンあけた)、エフライフノムスメ(エフライフの名前)になりますからね。

 一緒に暮らすのはサルのニクソン氏と引っ越した日に購入したウマ。

 ピッピのともだちは、男の子トミーと女の子アンニカのセッターグレン兄妹。

 赤毛でそばかすがいっぱい。着ものはピッピのお手製、パッチワークと言えば格好いいのですがようは継ぎはぎだらけ。長い靴下、その靴下も色違い、おまけに靴はブカブカ。

 スーパウーマンのようなピッピですが、そばかすで、字がうまく書けないと、苦手なこともあります。何から何まで完璧だとすこし距離をおきたくなりますが、ここらが子どもの共感をよぶのでしょうか。

 

 一人暮らしの子どもを見たら子どもの家(孤児院)にいれようと考えるのが大人。どんな子どもにもしかってやる人がだれかついていなければならないし、掛け算の九九を習わせなければならないと勝手に思い込みます。おまわりさんがやってきて、「子どもの家」にピッピをいれようとしますが、ピッピのこたえは「わたしは九年間ちゃんとやってきたわ。だから、これからだって やっていけるとおもうわ」。

ピッピ、おまわりさんと鬼ごっこをする

 子どもの家にいれようとする、おまわりさんを、軽くいなし、ベランダから、煙突によじのぼって鬼さんごっこするピッピ。はしごをはずし、おりられなくなったおまわりさんを、屋根からおろしてあげますが、力業ではピッピにかないません。もしピッピが学校にいきたくなったら、ピッピがじぶんでいくがよいということに。

 お金に不自由しなくても九歳の子が自立できるかどうか?

 つい先ごろまで、九歳ぐらいになると貴重な労働力、下の子がいるとその子のめんどうをみたりするのは当たり前でした。家族の中で果たす役割があり、一方的に保護される存在ではありませんでした。時代をさかのぼって人生50年時代には、自立をうながされる存在でもありました。ついそんなことを考えました。

 小学校は義務教育?。大人は子どもに教育をうけさせなければならない?

 アンニカからクリスマス休みも復活祭休みも夏休みもあるわといわれ、ウマと一緒に学校に行ったピッピに、どれだけしっているか すこし試験をしてみたいんだけどと試験を出した先生に「あんたがしらないことを、わたしにかわりにやらかそうなんて、おもわないでちょうだいね!」と、先生を”あんた”よばわり。

 算数も国語もダメ。絵は床に寝そべってすきなように絵をかいて、しっぽをかくときは廊下にでなきゃならないと、先生を困惑させ、歌おうとしても寝転がったままのピッピ。

  ピッピは、「あなたみたいにおぎょうぎのわるい女の子は、どんなにじぶんでにきたがっても、学校に入れてもらえないでしょうよ」という先生にびっくりします。どんなぎょうぎをしたらいいのかわからなかったのです。

 「でも、じぶんじゃ 気がつかなかったのよ。」とピッピは悲し気な顔をします。

 「あなたは、もうちょっと大きくなったら、学校にきてもいいとおもうわ」という先生に、ピッピは金時計を机の上に置きます。もうらうわけにはいかないという先生に「うけとらないと、またあしたくるわよ」というのは、脅しかな。 

ピッピ、学校にいく

 ピッピは、勉強したりすると、ひどい目にあうという学校の話をして、みんなを煙に巻いて、さよならです。ピッピは学校の必要性を考えていなかったようです。

 物語の主人公は年をとりません。このあとピッピは学校にいってみたいと思ったでしょうか。

 さまざまな原因で不登校になるケースがありますが、こんなとき無理に学校に行かせようとするとますます学校嫌いに。不登校の原因の一つに無気力があげられていますが、ピッピにとって無気力とは無縁です。

 四階建ての「摩天楼」という家が、火事になったことがあります。屋根裏部屋にふたりの小さな男の子が、取り残されていました。ピッピは真っ赤な消防自動車、火の粉がとんできても面白がっていました。屋根裏部屋の子どもたちがさぞかし楽しんでいるだろうと思うのもピッピらしいところです。

 誰も助けようとしないので、そばの高い木にロープをかけ、長い板を屋根裏部屋にかけ、綱渡りのようりょうで、子どもたちをたすけます。

ピッピ、英雄になる

 ロープをかけたのはサルのニクソン氏。ニクソン氏の存在感が、いまひとつでしたが、ここでは大活躍。「おまえ、ほんとうにりこうね!おまえなら、いつでも大学教授になれるわよ」というピッピですが、ピッピにとって大学教授というのは、この程度の存在のようです。

ピッピ、どろぼうに、はいられる

 ピッピが泥棒に入られたことがあります。二人の浮浪者でした。世界一強い女の子にかかっては、なんの問題もありません。ひとりにくしを吹き鳴らさせ、もうひとりとピッピはポルカを踊りだします。そして二人がドアからでようとすると「これはね、あんたたちが、ちゃんとかせいだお金よ」と金貨を一枚づつあげます。

 常識外れのピッピのようですが、浮浪者が、どんな境遇におかれているのかも、よーくわかっています。