どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

みんなそれぞれ きのいいなかま

2019年10月19日 | 五味太郎

    みんなそれぞれ きのいいなかま/五味太郎/絵本館/1994年

 

 手のひらサイズの絵本で、一ページ一ページ独立していて 思わずニヤリです。

 家の中にある、ミルク入れ、電話(固定電話)、テレビ、テーブル、いす、タンス、時計、カバンなど、身近なものがでてきて なにやら やりとりです。

 「なんだかよくわからないけれど とにかく おこりっぽい とうがらし団」「会議ばかりやっているのに なんにも決まらないきゅうり会社の社員」「けっこう あちこち旅をしているのに いっこうに賢くならない 旅行カバン氏」というのは、人に対する皮肉?

 食べ物のメニューをとめている画鋲は、「いつも力をあわせてくらしている兄弟」で、葛飾北斎の絵は「北斎先生を目標に 今日も練習にあけくれる波の若者」とサーファーと重ねています。

 おっと とおもう視点がいっぱいです。

 そして最後は、皿の上の骨だらけの魚が 「ではみなさん ぼくはこれで 失礼しますごきげんよう と ていねいにあいさつするホネ氏」です。


あかい自転車

2019年10月18日 | 絵本(外国)

    あかい自転車 ビッグ・レッドのながい旅/ジュード・イザベラ・文 シモーネ・シン 志多田 静・訳/六耀社/2017年

 

 自動車やガソリンがたかすぎ、荒れた狭い道で便利な自転車を必要とする人々。

 隣の家の芝をかり、落ち葉をかき集め、雪かきをしたお駄賃をこつこつとためて、レオが買ったのは、真っ赤な色をした自転車。ビッグ・レッドと名付けた自転車で学校、スイミング・プール、サッカーの練習にもかよいます。

 そんなレオも大きくなって、新しい自転車に乗りかえなければならない時がおとずれ、レオはビッグ・レッドを自分と同じくらい大事にしてくれる人にあげようと思いました。

 中古自転車を、貧しくても買えない遠い国に集めておくっている団体のことを知って、レオは自転車を寄付することにきめました。

 コンテナにつみこまれたビッグ・レッドは、西アフリカへ。さらにトラックにのせられ、ついたアセリッタという少女のもとへ。

 アセリッタは、これまで自転車にのったことがなく、心配していましたが、やがて自転車は大活躍。トウモロコシの収穫。トウモロコシからつくった飲み物、自分でつくったプラスチックのバッグ、シアの実からつくったバターを市場にはこびます。

 時がたつにしたがってくたびれてきた自転車でしたが、修理されて、救急自転車にうまれかわり遠くの村へ薬をとどけたり、病気になった人を病院につれていきました。

 一台の自転車の行方をおいながら、ものを大事にするという原点を考えさせてくれる絵本です。自転車だと修理する技能の習得も車ほどではなく、設備もそれほど必要ありません。

 自転車が貴重な乗り物だという世界がまだまだ多いということでしょうか。

 タンガニーカ湖でパンを山のようにつんでいる自転車、タンザニアで山のように積まれた材木をはこぶ自転車、ウガンダで大量のバナナを運ぶ自転車の写真が印象的です。

 人びとから寄付された自転車を、必要な国に届ける活動をしているさまざまな非営利団体の情報ものっています。


悪魔のズボン

2019年10月17日 | 昔話(ヨーロッパ)

      イタリアの昔ばなし/クリン王/安藤美紀夫、剣持弘子・編訳/小峰書店/1984年

 

 もてすぎる男もあちこち気をつかわないといけないので大変。

 父親が亡くなって、王さまの召使になったサンドリーノでしたが、お妃に気にいられて、このままでは王さまに気づかれてしまうと、別の町へ。

 ところがここでも王さまのむすめに気に入れられ、面倒なことがおこらないうちにやめて、ある王子のところへ。ところがここでもお妃がサンドリーノを愛するようになったので、そこも立ち去ります。

 サンドリーノは、自分の美しさをのろって、わざわいから逃れるためには悪魔に魂をやってもいいと、言ってしまいます。そのとたん若い紳士が目の前にあらわれ、「ズボンをあげるが、いつも身に着けていて、七年間のあいだ、顔も洗わず、髭もそらない、髪も爪もきってはならない。七年後にはズボンをかえしてもらいにきます」と言って、消えます。

 このズボン、うごくと金貨がポケットにいっぱいになるズボン。金貨をとりだすと、またいっぱいに。

 ある町で宿をとり、一日中ズボンからお金をだして積み上げていきます。用事をしてくれる人、貧しい人が手を出すたびに金貨を一枚やっていました。おかげで宿の前にはいつも行列。

 お金にはこまらないサンドリーノは、高い屋敷を買い、家具、調度をすっかりかえ、一階の部屋を全部鉄で裏打ちさせ。出口をふさがせ、自分はそのなかに閉じこもり、ズボンからお金をだしてすごします。そして一つの部屋がお金でいっぱいになると、次の部屋にうつるを繰り返します。

 時がたつと、爪は羊の毛をすく 櫛のようにながくなり、体の表面は、どこもかしこも指一本ほどの垢がこびりついて、もう人間というよりけだものといったほうがいいくらい。

 ある日、この町の王さまが、隣の町から宣戦布告されますが、戦争をもちこたえるだけのお金がなくサンドリーノにお金を貸してくれるようたのみます。

 サンドリーノは、王さまの三人のお嬢さまのどなたかひとりを、妻にくださることを条件にお金を貸すことにします。

 肖像画を見た二人の娘は、結婚をことわりますが、末の娘が承諾します。末の娘は先見の明があったようですよ。

 約束より多い金額を王さまにわたしたサンドリーノが、結婚式に必要な衣装をつくらせ、四つの浴槽に入ってからだを洗いはじめます。ちょうど七年がたって、垢がおち、もとの美しいはだが見えるようになり、髪も爪も切りましたから、万々歳の結末かと思うと・・・。

 やがてやってきた悪魔が、サンドリーノの魂とひきかえにズボンを取り戻そうとします。

 ところが、悪魔がいったのは、「おまえの魂のかわりに、おまえはべつの魂をみつけてくれたから、おまえをそっとしといてやろう」と意外なことでした。

 悪魔がもっていったのは、王さまの上の二人の娘の魂でした。

 じつはこの二人、サンドリーノと末のゾーザの結婚式の宴会で「あんなうれしそうなふたりを見ないですむなら、悪魔に魂をやってもいいわね」と、ささやいていたのでした。

 ところで、前半のズボンをくれるところで、魂とひきかえというのがでてこないので、最後のスリルにつながらないのと、戦争がどうなったかはどうでもよくなって、結婚式の豪華な準備がつづくのがややものたりない。ただ、オチには、二人の存在感があるのですくわれます。


ふまんがあります

2019年10月16日 | ヨシタケ シンスケ

     ふまんがあります/ヨシタケ シンスケ/PHP研究所/2015年

 

 わたしは いま おこっている なぜなら おとなは いろいろと ズルいからだ。ちゃんと もんくをいって ズルいのを やめてもらおう。

 「どうして おとなは よるおそくまで おきているのに、こどもだけ はやく ねなくちゃいけないの?」

 「どうして おふろに はいる じかんを、おとなが かってに きめちゃうの?」

 「どうして おとうとが わるいのに、わたしばっかり おこられるの?」

 「どうして パパは じぶんが ほしいものは すぐに かうのに わたしの ほしいものは かってくれないの?」

 「どうして ニュースを みなくちゃいけないの? わたしは アニメが みたいのに!」

 まだまだ ふまんがどっさり。

 子どもの不満に、納得いく答えだせるかなあ。

 パパのりゆうが とっても 苦しいのです。これじゃ 納得しません。

 もっとも、パパも こどもだって ズルいと 反論ですが・・・。

 「そとに、あそびにいくのはいいけれど、シロクマが パパを なかまだとおもって、ほっきょくに つれてかえろうとするからだし、オランウータンが、パパを なかまだと おもって、あつい ジャングルに つれてかえろうと するからだよ」と、パパが言うのには、笑うだけです。


パンはころころ・・ロシア、ホットケーキ・・ノルウエー、ほか

2019年10月15日 | 絵本(昔話・外国)


     パンはころころ ロシアのものがたり/マーシャ・ブラウン・作絵 八木田 宜子・訳/冨山房/1996年新装版


 ロシアのこの話は、いろいろな再話がありますが、マーシャ・ブラウンというので借りてきました。

 お爺さんがお婆さんにパンを作ってと頼みますが粉がないというお婆さん。こねばちの底、粉箱の底の粉をかき集めて、出来上がったパンが、ころころ逃げ出します。

 パンは、のうさぎ、おおかみ、ひぐまから逃げ出し、きつねからも逃げようとするのですが・・・

 パンが逃げ出すときの歌は、そのまま読んでも面白くないので即興で歌うのが楽しそうです。

 昔話の特徴の、繰り返しが楽しい話です。

 裏表紙には、おじいさん、おばあさん、のうさぎ、おおかみ、ひぐまが、パンを追いかけていて、表表紙には、 きつねが木のそばで、みんなをながめています。

   ころりんパン/Y・ワスネツォフ・絵 北畑静子・訳/大日本図書/1990年

 

 マーシャ・ブラウンのものと同様ですが、パンが逃げ出すときの歌が楽しい。

 ぼくは ころころ ころりんパン

 こなおきば さらっと はいて

 こなばこ ちょいと ひっかいて

 あつめた こなで できたんだ

 サワークリームで こねられて

 こんがり あぶらで あげられて

 まどべに おかれて さまされた

 でも ぼくは にげだした

 ・・・

    おだんごぱん/せた ていじ・訳 わきた かず・え/福音館書店/1966年

 

 絵は茶色中心でやや地味な感じがします。

 おだんごぱんが、歌を歌いながら、うさぎ、おおかみ、くまから逃げ出すのは同じですが、「おまえなんかに つかまるかい」と、小憎らしい。

 きつねには、「すばらしいうただね」と、ほめられ、その気になったおだんごぱんが、べろのうえまでのっちゃったのが、まちがいでした。

 表紙では、おじいさん、おばあさん、うさぎ、おおかみ、きつねがのぞきこんでいます。おじいさん、おばあさんがおだんごぱんをおいかけるどころか、ながめているのは?

 


   パンケーキのおはなし/岸田 衿子・作 とうまゆか・絵/ひかりのくに/2002年

 同じような話ですが、こちらは逃げ出すのがパンケーキです。

 パンケーキが焼けた瞬間、七人の子ども、おかあさん、おばあさん、てくてくおとこ、めんどり、おんどり、あひる、がちょう・・・から逃げ出します。

 最後はブタです。


    しょうがパンぼうや/ポール・ガルドン・作 多田 裕美・訳/ほるぷ出版/1976年

 子どもがいないおじいさん、おばあさんはが焼いたしょうがパン。
 焼きあがったしょうがパンのぼうやは逃げ出してしまいます。

 おばあさん、おじいさん、牛、馬、お百姓さん、牛飼いさんから逃げながら、どんどん走りますが、最後はきつねです。


ホットケーキ(ノルウエーの昔話/愛蔵版おはなしのろうそく/東京子ども図書館・編

 絵本にもなっている「ホットケーキ」(絵本は”ころころ・パンケーキ”というタイトル)ですが、おはなし会で語られているのは、”おはなしのろうそく”版が多いようです。

 お母さんが七人の子ども達のために焼いたホットケーキが、ころころ逃げていきます。

 男の人に食べられそうになり、メンドリ、オンドリ、アヒル、ガチョウ、カモからもうまく逃げますが
 最後のブタに「ガブッ、ゴクゴクッ!」。
 
 大好きなのは出だしの部分。
 ホットケーキを食べたくて食べたくて、子どもがお母さんにホットケーキをねだる場面。

 「ねえ、わたしのだいすきなおかあさん」
 「ねえ、やさしくて、だいすきなおかあさん」
 「ねえ、きれいで、やさしくて、だいすきなおかあさん」
 「ねえ、親切で、きれいで、やさしくて、だいすきなおかあさん」
 「ねえ、頭がよくて、親切で、きれいで、やさしくて、だいすきなおかあさん」
 「ねえ、世界でいちばん頭がよくて、親切で、きれいで、やさしくて、だいすきなおかあさん」

 ほめことばが段々エスカレートいくさまがなんともいえません。

 「おはなしのろうそく」は、松岡享子さんの訳ですが、「パンケーキ」というタイトルで岩波少年文庫の佐藤俊彦さんの訳があります。こんな感じです。

  「おかみさんや、年とったおとうさんや、七人の子どもたちや、おじさんや、メンドリや、オンドリや、アヒルや、ガチョウからも、にげてきた」(佐藤訳)

  「ぼくは、おとうさんからも、おかあさんからも、七人のハラペコぼうずからも、オジサンポジサンからも、メンドリペンドリからも、オンドリゴンドリからも、アヒルガービルからも、ガッチョブッチョウからも逃げ出したんだ」(松岡訳) 

 松岡さんの訳は、なんともリズムがある訳です。

 

かたやきパン(イギリスとアイルランドの昔話 石井桃子:編訳 福音館文庫) 

 イギリスの昔話です。かたやきパンがにげだすのは、女の子、男の子、井戸掘り二人、溝堀ふたり、クマ、オオカミ。最後はキツネに食べられてしまいます。

 

クッキーぼうや(ブリッグズの世界名作童話集1 3びきの子ぶた/バージニア・ハヴイランド編 レイモンド・ブリッグズ・絵 小林忠夫・訳/篠崎書林1988年)

 おじいさんとおばあさんの二人暮らし。子どもがほしくてクッキーをつくり、皿に乗せ、かまどにかけますが、クッキーぼうやは、家を逃げ出します。
 ウシ、ウマ、麦打ちしている人、麦刈りをしている人から食べられそうになりますが、次にあったのはキツネ。

 川のそばにきて、クッキーぼうやは、キツネのしっぽにのり、背中にのり、鼻にのって渡ろうとするのですが、「パクッ!」。
 「ぼくの四分の一がなくなった」
 「おやっ、こんどははんぶんになっちゃった」
 「こりゃー、たいへんだぁー、そのまたはんぶんになっちゃった」

 それからクッキーぼうやは、もうなんにもいわなくなります。

 最後は、クッキーがだんだんなくなる感じがよくでています。最後の印象がいいと、それだけで、ずっと後まで記憶に残ります。

 


ぴたっ!

2019年10月15日 | 絵本(日本)

    ぴたっ!/あずみ虫:さく・え/福音館書店/2013年

 

ぞうの親子が

らっこの親子が

きりんの親子が

かもの親子が

カバの親子が

ふくろうの親子が

くまの親子が

ぴたっ! からだをよせあいます。

ぞうと らっこのあとは 予想できます。

どの親子も とっても 幸せそう。

作者紹介には、アルミ板をカッテイングする技法で、作品を制作しているとありました。


エイハブ船長と白いクジラ

2019年10月14日 | 絵本(外国)

   

    エイハブ船長と白いクジラ/マヌエル・マルソル:作・絵 美馬しょうこ・訳/ワールドライブラリー/2016年

 
 ナンタケット島に暮らすエイハブは七つの海をまたにかけるクジラとりの名人。
 
 ずっと大きなクジラをさがしていて、そのクジラのうわさをきいて船にとびのった。
 クジラの名前は、モビー・デイック。
 
 沈没船ににっても,カモメはなにも語らない。
 クラゲの海を渡っても、モビー・デイックは、みつからない。
 エイの大群を見てもみつからない。
 空の星さえ、やくにたたない。
 ぽかりと島があらわれ、洞窟の中へはいると、そこには、人食いガイコツ。あわやという瞬間、噴火でふきとばされ、海に潜ってみると、地獄の大ダコ。
 
 足をなくし、船もこわれ、ながされながら、大きな白い船をおいかけても・・・。
 名前も忘れ、家にもかえれず・・・。 白いクジラが見つかったどうか?
 
 通常の大型絵本より一回り大きい絵本で、夜の海、エイの大群、巨大な氷山、珊瑚の海、大ダコなどの絵の迫力に圧倒されます。
 ストーリーより、絵を楽しむ絵本でしょうか。
 
 
 エイハブの家には、「白鯨」ハーマン・メルヴェル著・ロックウエル・ケント・画という本が。

 エイハブ、モビー・デイックは「白鯨」に出てくる名前。

 エイハブが船にのりこむとき、すでに右足は義足。

 世界の十大小説のひとつと言われているが、読んだことはない。もっとも大長編で難解、名前がしられているほど愛読されていないとあって安心でした(笑)。


ぞうって、こまっちゃう

2019年10月13日 | 絵本(外国)

    ぞうって、こまっちゃう/クリス・リデル:文・絵 たなかかおるこ・訳/徳間書店/1999年

 

 おおきなぞうと いっしょに くらしたら?

 一緒にお風呂に入ると、お湯がじゃばじゃば あふれ、湯舟には、ピンクのあかが べっとり。

 一緒に眠ると、布団を全部とられ、いびきが ごうごう まど がたがた。

 自転車にのっても、すぐ こわれ。

 ピクニックにいくと、おかしを ぜんぶ ぞうが たべちゃう。

 ほんとに ほんとに こまっちゃう といいながら いちばんこまることは?

 それは、やっぱり ぞうが だいすきだって こと。

 おおきなぞうが、こわいというのは? 

 ね・ず・み。笑えました。


風で生きていた花よめ・・イタリア

2019年10月11日 | 昔話(ヨーロッパ)

      イタリアの昔ばなし/クリン王/安藤美紀夫、剣持弘子・編訳/小峰書店/1984年

 日本の「食わず女房」もそうですが、どこにでもいるケチな男の結末は? 

 それはそれはけちな王子に結婚話をもちかけたのは王子の召使ジュゼッペ。これまで王子の召使は、じきにやめて、ジュゼッペのように、長く続いている召使はありませんでした。ジュゼッペは、ぬけめのない男で、主人が走っているうちに主人の靴も靴下もぬがせてしまうこともできました。

 ジュゼッペが目をつけたのが、炭屋の娘。

 「妻を養うにはやれ帽子だ、絹の服だ、羽飾りだ、ショールだ、劇場と お金が湯水のようにでていく。おことわり。」という王子に、娘は風で生きていて、せんすで風をおこし、おなかをいっぱいにしますともちかけ、結婚話をまとめます。

 はなよめは、食卓についてもせんすであおぐだけ。王子は満足していましたが、はなよめのおかあさんが、鶏肉やカツレツを運ばせ、こっそりと食べていたのです。

 そんなことが一か月ほど続きますが、炭屋のおかみさんは、いつも自分の懐からお金を払わなければならないことが重荷になり、ジュゼッペにぐちをこぼすようになります。

 ジュゼッペは、お妃に王子の財産をみせてもらうようにたのみなさいといい、お妃は、しつっこく頼み込んで無理やり承知させます。そのときジュゼッペは、下着のすそに、ぐるっとのりをつけさせます。

 地下室には金貨が山のように積まれていました。お妃は大きな声をだして感心したり、おどろいてながめたりしながらスカートをひらひらさせていました。それで下着のすそにはお金がいっぱいくっつきました。

 これで、その後もお妃は、王子のみていないところで、おなかいっぱい食べていました。

 風で生きている妻をもって、しあわせに思っていた王子は、お妃を自慢しようと、甥のところへでかけます。そこで甥を食事に招待するといって、すぐに後悔します。ごちそうにはお金がかかるからです。

 いまさらいってもどうしようもない、肉を買うかわりに、狩りに行ってとってくればいいと、でかけることにします。

 王子が狩りに行くと、お妃はジュゼッペに鍛冶屋をさがさせ、鍛冶屋に鍵をつくらせます。

 そして地下室の金貨をすこし運びあげ、宮殿中の部屋を壁かけでかざらせ、家具やシャンデリア、大鏡などをととのえます。おまけに足の先まで制服でかためた門番もおきました。

 狩りから帰ってきた王子は、おどろいて「なんということだ!ぜんぶ ぜんぶ 妻が!」とさけび、ベッドにのびてしまいます。その後も「ぜんぶ 妻が!」といいつづけます。

 妻は、公証人と四人の証人をよび、ぜんぶの財産をうけとる遺言を残すことに成功します。

 王子は、「ぜんぶ 妻が!」と、もう二回ほど口を動かし、死んでしまいます。

 お妃は、喪が明けるとジュゼッペと結婚します。けちんぼのお金は、たかりやが使うことになったのです。どこにでも抜け目のない者がいます。浪費もケチもほどほどが肝心。 


よふかしにんじゃ

2019年10月10日 | 絵本(外国)

    よふかしにんじゃ/バーバラ・ダ・コスタ・文 エド・ヤング・絵 長谷川善史・訳/光村教育図書/2013年

 

 たまたま長谷川さん訳の絵本をつづけてみることに。

 「にんじゃ」でも作者も絵も外国の方、これは?

 真夜中、城に忍び込む黒い影。綱をかけ、スルスルよじのぼる忍者。

 抜き足 差し足 着地成功。つきあかりの廊下を そうっと そうっと

 目の前には たかそうな 掛け軸。 ふふふふふ、いざ。

 そのとたん!

 結末におもわず ずっこけ でした。

 評判がいいのですが、さすがの長谷川さんの関西弁の訳でも、すこし生かしきれなかったかな。

 「まだ にんじゃの しごとが あるねん」という子どもに

 「あんたの しごとは ねることや」と、お母さんの一喝。

 そういえば、タイトルが「よふかしにんじゃ」。

  あやしげな黒い忍者の画面がつづづき、なにがおこるかワクワク ドキドキしながら、オチとの落差。

 忍者の本当の目的は、つまみぐい?だったのか。


金の鳥・・ブルガリアのむかしばなし

2019年10月09日 | 絵本(昔話・外国)

       金の鳥/八百板洋子・文 さかたきよこ・絵/BL出版/2018年

 

 類話も多い昔話の定番のパターンです。

 ある城に金のりんごがなる不思議な木がありました。毎日昼に花が咲き、夕方には実をつけ、夜の間にあまくうれていました。ところが、ある朝、王さまが庭にでてみると金のりんごはひとつもありません。そこで、王さまは三人の王子に、夜の間、りんごの見張りを命じます。

 上の二人は、夜の間、眠ってしまいます。末の王子は、飛んできた金の鳥に矢をはなちますが、矢は羽根を一枚うち落としただけでした。

 次の日、末の王子が金色の羽を王さまにさしだすと、王さまは金の鳥をさがすように三人の王子にいいます。

 三人の王子は旅に出ますが、上の二人の王子は、末の王子をおいてどんどん先に行ってしまいます。

 末の王子は、道中で出会ったおなかをすかせた白いひげのおじいさんにパンをわけてやり、旅に出た理由を話し、おじいさんと金の鳥がいるまちに着きます。

 門番がねていて、金の鳥はもってきてよいが、鳥かごまではもってきていけないと忠告されますが、鳥かご手にもつと、城中に音がなりひびき、その城の王さまにつかまってしまいます。

 そこの王さまは、話をきくと、もし空を飛ぶ馬をつかまえてきたら、金の鳥とむすめもつかわそうといいます。失敗した代償は命。

 また、おじいさんのところへもどった末の王子は、空を飛ぶ馬のいる町につきます。門番がねむっているあいだに、馬の金のくさりをはずし、おじいさんのもとへもどります。金の鎖をはずさないと、また音がひびいたのかも。二度目は金という誘惑にまどわされなかった王子です。

 おじいさんと別れ、空飛ぶ馬に乗って、金の鳥のいる町にかえった末の王子は、金の鳥とお姫さまと自分の国にかえることになりました。

 森の中にあった小さな宿屋には、上の二人の兄が。二人は、末の王子を木にしばりつけ、金の鳥とお姫さまをつれて、国にもどります。王さまは旅に出るときに約束したように、国の半分づつをゆずることにし、一番上の王子とおひめさまと婚礼のしたくがはじめられます。

 木にしばりつけられていた王子は、運よくとおりかかったヤギ飼に助けられると、着ていたものをとりかえ、みすぼらしい身なりでお城にもどります。

 お姫さまは、婚礼にはクルミのからにはいっている花よめ衣裳を着たいと王さまに頼み・・・。

 

 人物が人形のようで、王さまは、まるで巨人のように描かれています。 

 三人の王子が出てきて、末の王子が活躍する。折角の忠告をききいれなかった末の王子を二度もたすけてくれる白いひげのおじいさんも、出番はすくないが昔話にはかかせない存在。

 金のりんごは、どんなあじ?

 金の空飛ぶ馬(ペガサス)はギリシャ神話にでてくる伝説の生物。鳥の翼をもちます。 


長くつ下のピッピ

2019年10月08日 | 創作(外国)

     こんにちわ、長くつ下のピッピ/アストリッド・グレーン・作 イングリッド・ニイマン・絵 いしいとしこ・訳/徳間書店/2004年初版

 ピッピは力持ち。馬をもちあげ、サーカスでは怪力アドルフをたおし、二人組の泥棒は「あっちでふざけて、こっちでふざけて、ホイ、ホイ」と、タンスの上にほりなげてしまいます。泥棒たちが、おそろしくてなきだすと「たべものでもかってちょうだい」と、金貨を一枚あげるやさしいところもあります。

 一人暮らしですが、料理も掃除もお茶のこさいさい。空き家の「ごたごた荘」に引越ししてきたピッピは、隣家のトミーとアニカはさっそくお友だちになって、ごちそうです。

 頭に上に、われたたまごの黄身がペチョとついても「たまごの黄身って、髪の毛に、いいんだって」と気にとめません。

 たべるのもテーブルの上ではらばいになり、いすのうえの食べ物をたべたり、シャンプーは洗面器の中に、あたまごとジャプーンとつけ、耳に水が入ってもへいっちゃら。寝るとき、枕には足を乗せ、顔は布団の中と既成概念にもとらわれわれません。

 「ゆかにおりないあそび」も型破り。流しの上から、かまどのうえ、たきぎ入れの箱、帽子の棚によじ登って、テーブルの上に。

 でも、ちょっとだけ、にがてなことも?

 ちょっと嫌なことがあっても、落ち込んでも、自由で痛快なピッピにであえると、元気がもらえそうです。

     ピッピ、お買い物にいく/アストリッド・リンドグレーン・作 イングリッド・ニイマン・絵 いしいとしこ・訳/徳間書店/2015年

 学校が休みで、となりに住むトミーとアニカの兄弟が、<ごたごた荘>のピッピのところへやってきました。

 町でお買い物をすることにした三人。ピッピのくつ下は、かたっぽは黄色で、もうかたっぽは黒。大きな旅行カバンから金貨をひとつかみ、ポケットにいれます。

 帽子がどうしてもみつからないピッピは「わからずやの帽子さんね。あたしがお買い物からかえってきたときに、いっしょにいきたかったて泣いても、しらないわよ」と、部屋の中をめちゃくちゃにしている自分を反省するどころか、これは、おどし?

 自由奔放、型破りのピッピ。「そばかすでおこまりですか?」と書いてある化粧品屋さんで、「そばかすにこまっていない」というと、お店の人から、「顔中そばかすだらけじゃないの」といわれたピッピ。「もしも、そばかすがふえるぬりぐすりが、うまく手に入ったら、あたしんちへ、7,8こ おくってください」と、ちょっぴり皮肉で切り返し。

 お菓子屋さんでは、たくさんの子どもがガラス窓にはりついて、おいしそうなおかしをじっとみつめていました。

 ピッピの買い物のスケールは大きい。お菓子屋さんで、たのんだのは飴玉18キロ。「あめだまを18個でしょう」と、お店の人がいうと、もういちど「18キロ、ほしいの」といいます。キイチゴゼリーやボートの形をした黒い甘草入りのあめ3キロ。ペロペロキャンデイ60本、キャラメル72個、チョコレートを103本。となりのおもちゃ屋さんで荷台付きの車を買ってお菓子の袋をつみこむと「お菓子を食べたくない子はいる?」と大声。だれもいません。食べたい子ときくのが普通。ちょっといじわるなピッピ。でも本当は優しいんですけどね。

 「お菓子を食べたい子は?」というと、23人の子が前にでました。いよいよこの小さな町ではみたこともないお菓子の食べ放題がはじまり、はじまり。

 おもちゃ屋さんでは、子どもたちに「どれでも自分の欲しいおもちゃをえらんでいいわよと」というと、おもちゃ屋さんの中は、ほとんど空っぽに。お店の人がオカリナが倉庫に残っていたと、たくさんだしてくると、ピッピは子どもたち全員にオカリナを買います。

 みんないっしょにオカリナをふきましたから、お巡りさんからどなられ、子どもたちは家にかえりました。

 買い物はまだまだ続きます。「やーっ きーょーくー あら ここは、おくしゅりを買うところでなかった」と、薬局でお買い物。「おくしゅり4リットル」「百日咳と、くつずれと はらいたと、風疹と、あとエンドウ豆を鼻におしこんだときにきく薬」「家具をみがける薬」。

 何種類の薬を買ったあとは、8本のビンがあるけど、なんて無駄なことをするのかしらと、一番大きなビンにながしこみます。

 ごちゃまぜ薬を飲んで「元気になってきた感じ。とくにおしりのあたりが もりもり元気になってきたわ」とピッピ。ピッピは怖いもの知らずで頑丈です。

 型破りと思うのは、大人の常識からいうこと。ピッピにとっては、普通のことなんでしょうね。

 お金持ちのピッピ、お金の使い道もよーく、こころえています。自分のためだけにつかっていません。お金を持っていたら、こんなふうに使いたいもの。

 ピッピの絵本、第4弾といいます。

 ほかにもピッピ語録が満載です。

 

     ピッピ、公園でわるものたいじ/アストリッド・リンドグレーン・作 イングリッド・ニイマン・絵 いしいとしこ・訳/徳間書店/2018年第2版

 公園で わるものたちが おおあばれ。警察もお手上げという新聞の見出しをみたピッピが わるものたいじ。

 6人組ですが、あっというまにみんな縛って警察に通報です。

 公園でわるものがでてくるのをじっとまっているのも大変。ピッピは<ごたごた荘>を解体して公園で、家を組み立て引っ越し。

 ところがそこにやってきたのが灰色の服を着たおじさん。すぐにやめろと怒鳴り声をあげますが、まだ屋根ができていません。屋根がなくてどうするのと、おじさんを、かるがるともちあげ、動いている電車にほうりこんでしまいます。

 引っ越しパーテイをしているとうるさいわめき声や口笛。ゴロツキたちがやってきたのです。

 家を解体して、いとも簡単に組み立てるという発想は、ピッピならでは。

 ところでピッピは9歳。<ごたごた荘>で、一人暮らし。母親は亡くなって、父親も海にほうりだされ生死不明です。ごたごた荘は父親がたてたものでした。

 一緒に暮らすのはサルのニクソンとウマ。

 ゴロツキたちが全員捕まったあとで、子どもたちが公園にやってきて、ピッピの馬に乗ったり、ニルソンにあったり。二ルソンのしんせきの大きなゴリラも、はるばる南の島からやってきて、公園では子どものためのおまつりがありました。

 

・長くつ下のピッピ/リンドグレーン・作 大塚勇三・訳/岩波書店/1964年 

 出版されたのは1945年、それも話があまりに奔放で、あちこちでことわられやっと出版されたといいます。このあと「ピッピ船にのる」「ピッピ南の島へ」が刊行されているようです。

 1945年以前といえば、日本では軍国主義一色。当時の日本では、とても考えられる内容ではありません。74年たった今でも、まったく古さを感じさせないどころが、こうした人物像がそれから今にいたるまで描かれていないことが逆に不思議です。

 自由奔放、型破りなピッピですが、わたしたちが、いかに既成概念にがんじがらめになっていることか。

 ところで力持ちで、お金もいっぱい、その上、身軽なピッピはまだ九歳。

 母は亡くなり、父親は船から投げ出され行方不明で一人暮らし。学校にいっていませんから、ちょっと字を書くのは苦手。

 ごたごた荘にすんでいます。ごたごた荘は、父親が残してくれたもの。

 ピッピは愛称。本名はぐっと長く、ピッピロッタ・タベルシナジナ・カーテンアケタ・ヤマノハッカ・エフライフノムスメ・ナガクツシタ。

 本名、原文のままでしょうか。タベルシナジナ(食べる品々)、カーテンアケタ(カーテンあけた)、エフライフノムスメ(エフライフの名前)になりますからね。

 一緒に暮らすのはサルのニクソン氏と引っ越した日に購入したウマ。

 ピッピのともだちは、男の子トミーと女の子アンニカのセッターグレン兄妹。

 赤毛でそばかすがいっぱい。着ものはピッピのお手製、パッチワークと言えば格好いいのですがようは継ぎはぎだらけ。長い靴下、その靴下も色違い、おまけに靴はブカブカ。

 スーパウーマンのようなピッピですが、そばかすで、字がうまく書けないと、苦手なこともあります。何から何まで完璧だとすこし距離をおきたくなりますが、ここらが子どもの共感をよぶのでしょうか。

 

 一人暮らしの子どもを見たら子どもの家(孤児院)にいれようと考えるのが大人。どんな子どもにもしかってやる人がだれかついていなければならないし、掛け算の九九を習わせなければならないと勝手に思い込みます。おまわりさんがやってきて、「子どもの家」にピッピをいれようとしますが、ピッピのこたえは「わたしは九年間ちゃんとやってきたわ。だから、これからだって やっていけるとおもうわ」。

ピッピ、おまわりさんと鬼ごっこをする

 子どもの家にいれようとする、おまわりさんを、軽くいなし、ベランダから、煙突によじのぼって鬼さんごっこするピッピ。はしごをはずし、おりられなくなったおまわりさんを、屋根からおろしてあげますが、力業ではピッピにかないません。もしピッピが学校にいきたくなったら、ピッピがじぶんでいくがよいということに。

 お金に不自由しなくても九歳の子が自立できるかどうか?

 つい先ごろまで、九歳ぐらいになると貴重な労働力、下の子がいるとその子のめんどうをみたりするのは当たり前でした。家族の中で果たす役割があり、一方的に保護される存在ではありませんでした。時代をさかのぼって人生50年時代には、自立をうながされる存在でもありました。ついそんなことを考えました。

 小学校は義務教育?。大人は子どもに教育をうけさせなければならない?

 アンニカからクリスマス休みも復活祭休みも夏休みもあるわといわれ、ウマと一緒に学校に行ったピッピに、どれだけしっているか すこし試験をしてみたいんだけどと試験を出した先生に「あんたがしらないことを、わたしにかわりにやらかそうなんて、おもわないでちょうだいね!」と、先生を”あんた”よばわり。

 算数も国語もダメ。絵は床に寝そべってすきなように絵をかいて、しっぽをかくときは廊下にでなきゃならないと、先生を困惑させ、歌おうとしても寝転がったままのピッピ。

  ピッピは、「あなたみたいにおぎょうぎのわるい女の子は、どんなにじぶんでにきたがっても、学校に入れてもらえないでしょうよ」という先生にびっくりします。どんなぎょうぎをしたらいいのかわからなかったのです。

 「でも、じぶんじゃ 気がつかなかったのよ。」とピッピは悲し気な顔をします。

 「あなたは、もうちょっと大きくなったら、学校にきてもいいとおもうわ」という先生に、ピッピは金時計を机の上に置きます。もうらうわけにはいかないという先生に「うけとらないと、またあしたくるわよ」というのは、脅しかな。 

ピッピ、学校にいく

 ピッピは、勉強したりすると、ひどい目にあうという学校の話をして、みんなを煙に巻いて、さよならです。ピッピは学校の必要性を考えていなかったようです。

 物語の主人公は年をとりません。このあとピッピは学校にいってみたいと思ったでしょうか。

 さまざまな原因で不登校になるケースがありますが、こんなとき無理に学校に行かせようとするとますます学校嫌いに。不登校の原因の一つに無気力があげられていますが、ピッピにとって無気力とは無縁です。

 四階建ての「摩天楼」という家が、火事になったことがあります。屋根裏部屋にふたりの小さな男の子が、取り残されていました。ピッピは真っ赤な消防自動車、火の粉がとんできても面白がっていました。屋根裏部屋の子どもたちがさぞかし楽しんでいるだろうと思うのもピッピらしいところです。

 誰も助けようとしないので、そばの高い木にロープをかけ、長い板を屋根裏部屋にかけ、綱渡りのようりょうで、子どもたちをたすけます。

ピッピ、英雄になる

 ロープをかけたのはサルのニクソン氏。ニクソン氏の存在感が、いまひとつでしたが、ここでは大活躍。「おまえ、ほんとうにりこうね!おまえなら、いつでも大学教授になれるわよ」というピッピですが、ピッピにとって大学教授というのは、この程度の存在のようです。

ピッピ、どろぼうに、はいられる

 ピッピが泥棒に入られたことがあります。二人の浮浪者でした。世界一強い女の子にかかっては、なんの問題もありません。ひとりにくしを吹き鳴らさせ、もうひとりとピッピはポルカを踊りだします。そして二人がドアからでようとすると「これはね、あんたたちが、ちゃんとかせいだお金よ」と金貨を一枚づつあげます。

 常識外れのピッピのようですが、浮浪者が、どんな境遇におかれているのかも、よーくわかっています。


おこる

2019年10月07日 | 長谷川善史

      おこる/中川ひろたか・作 長谷川善史・絵/金の星社/2008年初版

 

 はじめは、””おこられる”

 月曜日、朝寝坊して おこられた

 火曜日、ピーマン のこして おこられた

 水曜日、植木鉢 わって おこられた。

 ・・

 後半は、”おこる”

 ままごと やりっぱなしの いもうと、ぼくは おこる

 大切なおもちゃを かってに すてた おかあさん、ぼくは おこる

 約束を やぶった おとうさん ぼくはおこる

 ・・

 おこったあとって こころは どんより

 おこったからといって きもちが すっきりするわけじゃない。

 なるべく おこらない ひとに なりたいんだけどなあ。

 ”おこられる”のは、こうでなければということ。でもその前提が正しいのでしょうか?。

 宿題忘れておこられますが、どんな出し方をしたのか。なにか事情があったのかも。

 ”おこる”のは、自分が嫌だと思うこと。もしかすると、それも自分勝手な思い込みかも?

 靴をかくされて、おこりますが、隠したのにも理由があったのかも。

 

 ”ぼく”の日常生活のことが中心ですが、作者の思いは、人権のこと、平和のことなど、心の底から怒らなくてはならない時、許せない時があることを問いかけているかも?


がまの皮、うばっ皮・・木下順二作、おんば皮、うばのかわ(絵本)

2019年10月06日 | 昔話(日本)

がまの皮(がまの皮/子どもに贈る昔ばなし10 がまの皮/小澤俊夫監修/小澤昔ばなし研究所/2010年初版)

 じさが蛇に飲み込まれそうになったひきがえるを助けるかわりに、娘を一人、よめにやると蛇に約束することからはじまります。

 じさには三人の娘。

 上の二人は、とんでもないと断りますが、末娘は「よめにいくで」と千成りふくべと針千本をもって、へびのところにいきます。へびは娘がもっていった針を沈めようとして毒が回って死んでしまいます。

 後半部はがらりと場面がかわります。

 末娘は、へびによめにいったといううわさが広がっているだろうからと、旅に出ます。
 娘は、途中にであったばさまからがまの皮というのをもらい、それをかぶって年寄りのよごればさに変身し、長者の屋敷で働きはじめます。

 長者の息子が、夜になると変身前の姿になる娘を見て、恋煩いになって、やがて娘と結婚するという結末。後半部は、日本版シンデレラ物語。

 途中で会うばさは、ひきがえるが変身してもおかしくはないのですが、一人暮らしで、寂しいところにきてくれたので手助けをしてくれる存在です。


うばっ皮(わらしべ長者 日本民話選/木下順二・作 赤羽末吉・画/岩波少年文庫/2000年初版)

 同じ再話で、モチーフが同じですが、細部は大分異なります。
 娘が途中で会うばあさんは、カエルの変身とはっきりしています。

 子どもに贈る昔ばなしでは、三人の娘がでてきますが、木下版では一人。

 長者のわかだんなが、娘を見初めるのは芝居見物にきていた美しい娘。

 わかだんなに、芝居見物をすすめられ、娘はせっかくいくならと「うばっ皮」をぬいで、芝居小屋にはいったのでした。
 
 子どもに贈る昔ばなし版では、娘が部屋で本を読んでいるのをみて、恋煩いになるのですが、木下版のほうが舞台の設定が巧みな感じがします。


おんば皮(子どもに語る日本の昔話②/稲田和子・筒井悦子/こぐま社/1995年初版)

 タイトルがことなりますが、同じ話です。
 
 子どもに贈る昔ばなし版とおなじようですが、冒頭部がことなります。田んぼの水がかれてしまって、だれか水をかけてくれる者がいたら、三人の娘の一人をよめにくれてやるんだが、とひとりごとをいうと、次の日、田んぼには水が入っていて、そのときおおきなヘビが帰っていきます。
 ヘビからのがれた娘が、途中、ひきがえるのばばから「おんばの皮」をもらって、長者のところにでかけていきます。
 
 ヘビに飲み込まれそうになったカエルを助けるのが、田んぼが日照りになって、独り言をいうと、ヘビが水を田んぼに入れるというほうが、受け止めやすい。

       うばのかわ/てのひらむかしばなし/長谷川摂子・文 小西英子・絵/岩波書店/2009年

 文だけではイメージしにくいが、そこは絵本。”うばのかわ”にはお面までついています。

 ”うばのかわ”をくれるのが、じいさまに命を助けてもらった、ひきがえると、はっきりしています。

 あかりがみえる様子が「ぺかん ぺかんと あかりがみえる」

 うばのかわをくれたばあさまが、「にがっと わらって ぼふぁっと きえてしまった」

 山賊があらわれるのは「わらわらと さんぞくが とびだした」

 と 長谷川さんの文のリズムも楽しい。


京の走り坊さん

2019年10月05日 | 絵本(日本)

    京の走り坊さん/文・東義久 画・無㠯虚几/赤平覚三/1995年

 

 京のふるいお寺で修行中のお坊さん。お寺ではたいへん重宝がられていました。たくさんの檀家に、ありがたいお札や、和尚さんのことづけをくばっていたからでした。

 京の端から端まで、雨の日も雪の日も一年中、一日200軒以上の檀家を、タッタッタッタ タッタッタッタ。

 その姿から、だれがということもなく走り坊さんとよばれ、ほとけさまの生まれかわりやと いう人もいました。

 走り坊さんの楽しみは、一日走ったあとの、いっぱいのお酒。

 ある日、殿さま同士の自慢話のため、尾張の国のはやあしと、はやあし比べをすることになりますが、走り坊さんは、褒美にも目もくれず、尾張のはやあしをふりきって、そのまま都にもどります。

 うわさはうわさをよんで、走り坊さんを、ひとめみようと見物人が都にあふれ、おかげで走り坊さんは夜におふだをくばることに。

 ある夏の日、大きな台風がやってきて、川が氾濫して家が流されたり、山がくずれたり、それはそれはたいへん。薬もなく食べ物や飲み水もなく、病人もではじめます。

 走り坊さんは寺の仕事のほかに、薬や食べ物を困っている人たちのもとへとどけはじめます。だれに遠慮することなく、おもいきり走れ回れるのが、うれしかったのです。献身的な姿に、京のひとたちは、走り坊さんを見かけると、自然と手を合わせるようになりました。

 ある日、村のきたはずれの村に、薬をもっていったとき、地酒を振る舞われます。それでなくともお酒のすきな坊さん。すすめられまま。いつも以上にいただいたお坊さん 「一晩とまっていきなはれと」というのもふりきり、くらがりの道を、ほたるのあかりをたよりに、またタッタッタッタ タッタッタッタと、はしっていきましたが、それが、走り坊さんをみたさいごでした。

 そして しばらくたったある日 村人が見つけたのはおおきな岩陰で、口にお札をくわえた赤いかおの鬼。死んでいました。

 村人は 走り坊さんは、お釈迦さんの歯を盗んで逃げた鬼、韋駄天という足の速い神さまにおいかけられた鬼とうわさします。 

 つみぼろし、のため 走り坊さんになり ありがたいお札を配っていたのだという人もいました

 

 墨絵風のやわらかい感じがする絵で、昔話と言ってもいいのでしょうが、実は、明治から大正にかけて、京の町を走り回っていた実在の人物がモデルになっているようです。 

 お釈迦さんの歯を盗んで逃げた鬼は、捷疾鬼というのですが、なぜ歯を盗んだのか、気になりました。