昨日は、二俣川から西谷駅まで歩きました。
途中聴いたのは1860年生まれのマーラーの作品。
ボヘミア出身の彼は、ユダヤ人の作曲家であり、
ドイツ・オーストリアで指揮者・作曲家として活躍した。
だからここではドイツ・オーストリア編でとりあげておく。
交響曲第10番嬰へ長調は1910年に作曲に取り掛かり、
第一楽章だけが完成した未完成の交響曲である。
イギリス人の音楽学者のデリック・クックが、
マーラー自筆のスケッチをもとに管弦楽化を完成させている。
もちろん、ほかにもいろいろな人が完成版を作っているが、
高校時代に初めて出会ったのが、ウィン・モリス指揮による
デリック・クックの最終改訂全曲版のレコードであった。
当時5000円もした2枚組のレコードは高かったのだが、
悩んだあげく買ってよく聴いていたレコードだった。
第一楽章アダージョは、弦楽器中心に展開される情熱的な
しかし死に対する恐怖と諦観がみられるような音楽である。
コーダの前に登場する金管楽器による不協和音のサウンドは、
マーラー自身にしか表現できない壮絶な生活である。
第ニ楽章スケルツォ第一は、中間部の優雅なレントラーが、
過ぎ去った栄光と束の間の幸せの時期を表現しているようでもある。
しかしそれとは裏腹に前後の音楽は現実的な厳しい音楽である。
第三楽章プルガトリオ(煉獄)は、幻想的な短い曲で、
いかにもマーラーらしい軽快な音楽である。
第四楽章スケルツォ第二は、ワルツ風の音楽だが、
スケッチには「悪魔が私と踊る」と書かれているように、
不気味な感じを漂わせる音楽である。
第五楽章フィナーレは、太鼓の強打で始まり、
テューバによる上昇する音階による主題が奏される。
その後フルートによって奏される感傷的な旋律が胸を打つ。
展開部のクライマックスで第一楽章が回想的に再現され、
長大な終結部は迫りくる死に抵抗しながらも、
それを最後はその死を受け入れようとする情緒的な楽章である。
そんなマーラーの交響曲第10番だが、
CD化の際におやっと思ったことがあった。
第四楽章の終わりには太鼓の強打による一音で終わるのだが、
その太鼓の強打が無くなっているのである。
レコードでは確かにその一音は聴くことができるし、
他の指揮者の盤でも聴いてみると確かに太鼓の一打がある。
なぜ、この太鼓の一音がCD化の際に消されたのだろうか。
このデリック・クック版を知らない人が、CD化に関わり、
おかしいと思って消してしまったのだろうか、謎である。
途中聴いたのは1860年生まれのマーラーの作品。
ボヘミア出身の彼は、ユダヤ人の作曲家であり、
ドイツ・オーストリアで指揮者・作曲家として活躍した。
だからここではドイツ・オーストリア編でとりあげておく。
交響曲第10番嬰へ長調は1910年に作曲に取り掛かり、
第一楽章だけが完成した未完成の交響曲である。
イギリス人の音楽学者のデリック・クックが、
マーラー自筆のスケッチをもとに管弦楽化を完成させている。
もちろん、ほかにもいろいろな人が完成版を作っているが、
高校時代に初めて出会ったのが、ウィン・モリス指揮による
デリック・クックの最終改訂全曲版のレコードであった。
当時5000円もした2枚組のレコードは高かったのだが、
悩んだあげく買ってよく聴いていたレコードだった。
第一楽章アダージョは、弦楽器中心に展開される情熱的な
しかし死に対する恐怖と諦観がみられるような音楽である。
コーダの前に登場する金管楽器による不協和音のサウンドは、
マーラー自身にしか表現できない壮絶な生活である。
第ニ楽章スケルツォ第一は、中間部の優雅なレントラーが、
過ぎ去った栄光と束の間の幸せの時期を表現しているようでもある。
しかしそれとは裏腹に前後の音楽は現実的な厳しい音楽である。
第三楽章プルガトリオ(煉獄)は、幻想的な短い曲で、
いかにもマーラーらしい軽快な音楽である。
第四楽章スケルツォ第二は、ワルツ風の音楽だが、
スケッチには「悪魔が私と踊る」と書かれているように、
不気味な感じを漂わせる音楽である。
第五楽章フィナーレは、太鼓の強打で始まり、
テューバによる上昇する音階による主題が奏される。
その後フルートによって奏される感傷的な旋律が胸を打つ。
展開部のクライマックスで第一楽章が回想的に再現され、
長大な終結部は迫りくる死に抵抗しながらも、
それを最後はその死を受け入れようとする情緒的な楽章である。
そんなマーラーの交響曲第10番だが、
CD化の際におやっと思ったことがあった。
第四楽章の終わりには太鼓の強打による一音で終わるのだが、
その太鼓の強打が無くなっているのである。
レコードでは確かにその一音は聴くことができるし、
他の指揮者の盤でも聴いてみると確かに太鼓の一打がある。
なぜ、この太鼓の一音がCD化の際に消されたのだろうか。
このデリック・クック版を知らない人が、CD化に関わり、
おかしいと思って消してしまったのだろうか、謎である。