正月気分もそろそろ終わりなので、テンプレートを変えました。
昨日は二俣川から湘南台駅まで歩きました。
久しぶりに2時間半近く歩き、少し身体的に疲れた。
途中聴いたのは、ベートーヴェンの交響曲第4番。
交響曲第4番変ロ長調作品60は、1806年に作曲された。
高校時代には友人がコリン・デーヴィス盤を買って、
しきりにこれはいいということを言っていたが、
私は高校の頃はクリュイタンス盤をよく聴いていた。
その後はカルロス・クライバー盤を聴いていた。
今回はドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンを
パーヴォ・ヤルヴィが指揮したCDを聴いた。
第一楽章アダージョ-アレグロ・ヴィヴァーチェは、
序奏部をヤルヴィもゆっくりとしたテンポで演奏している。
この神秘的な雰囲気から、緊張感が高まり、
そのあとに続く主部のアレグロ・ヴィヴァーチェは、
これに対して軽快なテンポで流れ、対照的である。
躍動感あふれる第一主題とかわいらしい感じの第二主題が、
提示され、ソナタ形式に基づき展開部を経て再現部へといく。
ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンと
ヤルヴィの指揮による演奏はダイナミックな部分も見せながら、
生き生きとし、みずみずしい感じを伝えてくれる。
聴いていてヤルヴィが指揮するみなとみらいホールでの
来日公演の感動が鮮やかによみがえってきた。
コーダのところの華々しい終わり方も爽快感がある。
第ニ楽章アダージョは、二つの主題により音楽が展開される。
木管楽器などによるのどかで牧歌的な部分がありながら、
打楽器などが加わり、激しく、ダイナミックなところもある。
その対比をヤルヴィ盤は見事に表現している感じがする。
乾いたようなティンパニの音も効果的である。
第三楽章アレグロ・ヴィヴァーチェは、スケルツォ楽章である。
ダイナミックで緊張感を持った旋律は堂々としている。
トリオの部分は牧歌的であり、これは2回挿入される。
そのあと再び最初のダイナミックな音楽が繰り返されて終わる。
第四楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポは、ソナタ形式で、
駆け抜けるような軽快な音楽で、宮廷的な華麗さも一部にある。
展開部では転調が多くみられ、興味深い展開となっている。
コーダは弦楽器とオーボエによりやさしい感じに一旦なるが、
一気に駆け抜けるように最後盛り上がって終わる。
ちなみに今回ベートーヴェンの交響曲編の最後にあわせて、
ベートーヴェンの交響曲第10番なるものを聴いてみた。
これはバリー・クーパー博士がベートーヴェンの残した
スケッチをもとに復元したものであるというのだ。
ウィン・モリス指揮ロンドン交響楽団によるCDを聴いたが、
序奏とアンダンテ、アレグロとアンダンテの再現と続く音楽は、
支離滅裂な印象を受け、統一性に欠けている。
少なくともベートーヴェンが管弦楽化した場合には、
このような音楽はしなかったであろうと思える。
これを復元することにはいささか疑問を感じるのである。
ピアノ・ソナタの「悲愴」の第二楽章の主題に酷似した
アンダンテの部分は美しくはあるが、
おそらく彼がオーケストレーションを施したとしても、
単独の楽章の主題としたであろうと思えるので、
アレグロの部分とつなげようとしても変である。
また、アレグロの部分はこれを素材にして、
ソナタ形式の楽章にするならば意味もあるが、
そうでなければ中途半端な感じである。
だからどうしてもこの曲は交響曲第10番とは言えない。
あくまでもベートーヴェンのスケッチに基づく
クーパー博士による管弦楽化の試みとまでしか言えない。
とはいえ、いろいろ考える人がいるんだなあと思う。
きっとベートーヴェン本人はこれを交響曲第10番として、
世に出ているのを知ったら、やめてほしいというだろうなあ。
昨日は二俣川から湘南台駅まで歩きました。
久しぶりに2時間半近く歩き、少し身体的に疲れた。
途中聴いたのは、ベートーヴェンの交響曲第4番。
交響曲第4番変ロ長調作品60は、1806年に作曲された。
高校時代には友人がコリン・デーヴィス盤を買って、
しきりにこれはいいということを言っていたが、
私は高校の頃はクリュイタンス盤をよく聴いていた。
その後はカルロス・クライバー盤を聴いていた。
今回はドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンを
パーヴォ・ヤルヴィが指揮したCDを聴いた。
第一楽章アダージョ-アレグロ・ヴィヴァーチェは、
序奏部をヤルヴィもゆっくりとしたテンポで演奏している。
この神秘的な雰囲気から、緊張感が高まり、
そのあとに続く主部のアレグロ・ヴィヴァーチェは、
これに対して軽快なテンポで流れ、対照的である。
躍動感あふれる第一主題とかわいらしい感じの第二主題が、
提示され、ソナタ形式に基づき展開部を経て再現部へといく。
ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンと
ヤルヴィの指揮による演奏はダイナミックな部分も見せながら、
生き生きとし、みずみずしい感じを伝えてくれる。
聴いていてヤルヴィが指揮するみなとみらいホールでの
来日公演の感動が鮮やかによみがえってきた。
コーダのところの華々しい終わり方も爽快感がある。
第ニ楽章アダージョは、二つの主題により音楽が展開される。
木管楽器などによるのどかで牧歌的な部分がありながら、
打楽器などが加わり、激しく、ダイナミックなところもある。
その対比をヤルヴィ盤は見事に表現している感じがする。
乾いたようなティンパニの音も効果的である。
第三楽章アレグロ・ヴィヴァーチェは、スケルツォ楽章である。
ダイナミックで緊張感を持った旋律は堂々としている。
トリオの部分は牧歌的であり、これは2回挿入される。
そのあと再び最初のダイナミックな音楽が繰り返されて終わる。
第四楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポは、ソナタ形式で、
駆け抜けるような軽快な音楽で、宮廷的な華麗さも一部にある。
展開部では転調が多くみられ、興味深い展開となっている。
コーダは弦楽器とオーボエによりやさしい感じに一旦なるが、
一気に駆け抜けるように最後盛り上がって終わる。
ちなみに今回ベートーヴェンの交響曲編の最後にあわせて、
ベートーヴェンの交響曲第10番なるものを聴いてみた。
これはバリー・クーパー博士がベートーヴェンの残した
スケッチをもとに復元したものであるというのだ。
ウィン・モリス指揮ロンドン交響楽団によるCDを聴いたが、
序奏とアンダンテ、アレグロとアンダンテの再現と続く音楽は、
支離滅裂な印象を受け、統一性に欠けている。
少なくともベートーヴェンが管弦楽化した場合には、
このような音楽はしなかったであろうと思える。
これを復元することにはいささか疑問を感じるのである。
ピアノ・ソナタの「悲愴」の第二楽章の主題に酷似した
アンダンテの部分は美しくはあるが、
おそらく彼がオーケストレーションを施したとしても、
単独の楽章の主題としたであろうと思えるので、
アレグロの部分とつなげようとしても変である。
また、アレグロの部分はこれを素材にして、
ソナタ形式の楽章にするならば意味もあるが、
そうでなければ中途半端な感じである。
だからどうしてもこの曲は交響曲第10番とは言えない。
あくまでもベートーヴェンのスケッチに基づく
クーパー博士による管弦楽化の試みとまでしか言えない。
とはいえ、いろいろ考える人がいるんだなあと思う。
きっとベートーヴェン本人はこれを交響曲第10番として、
世に出ているのを知ったら、やめてほしいというだろうなあ。