霧のような雨の降る日に公園のベンチに猫がうずくまっていた。もう五年も前のことである。多くの友人に恵まれながらも、一人の美しい異性に恵まれなかった当時の私は、ひどい寂寥感を抱えて傘を差し、その公園を通りがかった。黄土色の毛を汚く濡らした猫と眼が合った瞬間の、えも言えぬ胸騒ぎを私は忘れない。猫ごとき獣(と私は従来から動物を低く見る癖があった)が、故意に雨に全身を濡らすという、ある意味で極めて人間的な叙情を見せたこと、加えてかの猫の私を見つめる眼が、とても、───なんとも表現しがたいが───とても、「人間的」だったこと。今思っても、あの猫はあのとき、あまりにも獣離れした雰囲気を漂わせていた。私を待っていたとしか思えなかった。五年もの間、あの刹那的な光景を、私はその極めて凡庸な内容にも関わらず、完全に頭から消し去ることができなかった。
この夏、小劇場の薄暗い客席で空席一つ隔てて隣り合わせに座った女性は、私にあの霧雨の日の猫を思い出させた。そうだ、あのときの仔猫のようだ、と私は心につぶやいたものだ。劇場は狭い階段を降りた地下にあった。微調整の効かないクーラーがまばらな客席をさらに寒いものにしていた。舞台は犯罪と言えるほど面白くなかった。若い男の役者は面白いことを言おうとするたびにとちった。女の役者は声が甲高くて聞き取りにくかった。そしてクーラーは殺人的に私の背中を冷やした。一つ向こうの席に彼女が座っていなかったら、私は本当に立ち上がって帰っていたかもしれない。
私はちらちらと彼女を観察した。やや不健康な長い鬢が、痩せた頬に絡み付いていた。前髪も少し乱れていた。濡れそぼちた感が、その横顔にはあった。だからあの猫と連想が結びついたのであろう。白い肩と鎖骨の覗く薄緑色のスリーブレス一枚では、彼女はひょっとして凍えているんじゃないだろうか、と私は訝った。あれだけ両腕をきつく組んでいるのだから、しかし体を硬くして舞台を見つめる彼女は、実際には、ただ単に演劇に集中していたのであろう。それにしても詰まらない舞台であった。他愛もない日常の他愛もない虚無感が演じられていた。彼女の落ち窪んだ目がじっと見つめる先は、もっとドラマチックな現実があるはずだ。あるいは涙も乾くほど、遠い昔の追憶か。
彼女はゆっくりと目を閉じた。スポットライトを浴びた舞台では、赤いネクタイを斜めに締めた三枚目の役者が、大きく膨らんだごみ袋に寄りかかりながら叫んでいた。
「明日がもしその先で昨日につながっていたとしたら。希望がすでに絶望を終着点としていたとしたら。ごみ収集日前のごみ袋のように瀬戸際まで膨らんだぼくのこの孤独は、いったい誰が引き取ってくれるんだろう?・・・・・」
この夏、小劇場の薄暗い客席で空席一つ隔てて隣り合わせに座った女性は、私にあの霧雨の日の猫を思い出させた。そうだ、あのときの仔猫のようだ、と私は心につぶやいたものだ。劇場は狭い階段を降りた地下にあった。微調整の効かないクーラーがまばらな客席をさらに寒いものにしていた。舞台は犯罪と言えるほど面白くなかった。若い男の役者は面白いことを言おうとするたびにとちった。女の役者は声が甲高くて聞き取りにくかった。そしてクーラーは殺人的に私の背中を冷やした。一つ向こうの席に彼女が座っていなかったら、私は本当に立ち上がって帰っていたかもしれない。
私はちらちらと彼女を観察した。やや不健康な長い鬢が、痩せた頬に絡み付いていた。前髪も少し乱れていた。濡れそぼちた感が、その横顔にはあった。だからあの猫と連想が結びついたのであろう。白い肩と鎖骨の覗く薄緑色のスリーブレス一枚では、彼女はひょっとして凍えているんじゃないだろうか、と私は訝った。あれだけ両腕をきつく組んでいるのだから、しかし体を硬くして舞台を見つめる彼女は、実際には、ただ単に演劇に集中していたのであろう。それにしても詰まらない舞台であった。他愛もない日常の他愛もない虚無感が演じられていた。彼女の落ち窪んだ目がじっと見つめる先は、もっとドラマチックな現実があるはずだ。あるいは涙も乾くほど、遠い昔の追憶か。
彼女はゆっくりと目を閉じた。スポットライトを浴びた舞台では、赤いネクタイを斜めに締めた三枚目の役者が、大きく膨らんだごみ袋に寄りかかりながら叫んでいた。
「明日がもしその先で昨日につながっていたとしたら。希望がすでに絶望を終着点としていたとしたら。ごみ収集日前のごみ袋のように瀬戸際まで膨らんだぼくのこの孤独は、いったい誰が引き取ってくれるんだろう?・・・・・」