た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

柿の木をめぐる思い出

2005年11月19日 | essay
 一週間ぶりにパソコンを開くことができると、多弁を恐れる。私はクリスマスの翌日の子どものように、いろんな出来事を誰かにしゃべりたくてうずうずしているのだ。

 何があるわけでもなく、何を期待するわけでもない、私はすでに平均化された大人だと言うのに。
 
 ・・・・・・・・・・・・・

 街外れで柿の木に出会った。窓を閉め切った車の中から見えたのだが、次の交差点で青信号を待つ間、私はハンドルに腕を乗せたまま古い思い出を手繰っていた。

 私は小学時代の大半を田舎の長い通学路で費やした。そこには何でもあった。堰止めすべき用水路。蹴るべき小石や空き缶。振り回すべき枯れ枝。「かじっぽ」と呼ばれた、茎を噛むと酸味の口に溢れる雑草。白詰草。紫詰草。民家の柿の木。

 柿の木。われわれ子どもは秋を迎えると、誰からともなく、片道4キロに及ぶ通学路に面した民家の柿の木をすべて「征服」しなければいけない、という使命に一様に汚染されていった。下校のたびに、幼い「盗人」たちは新たな柿の木に挑戦しないではいられなかった。不幸かそれが世の習いか、ほとんどが干し柿用の渋柿であったので、われわれ幼い盗人たちは当然ながら、略奪した柿を齧る毎にこの世の終わりのような渋面を作らなければならなかった。
 
 それでもたゆまぬ幼い盗賊団は、木枯らしが吹くころには通学路のほとんど全域を踏破していた。

 最後まで未踏のまま残された柿の木が一本あった。不思議な雰囲気を路上にまで振りまく一軒家で、母親と知的障害者の娘の二人暮しの家庭であった。二人とも汚い服を着て、太って、笑ったことがなかった。

 「あのうちの柿の木だけ残すわけにはいかんよ」
 「でもなんかばっちくない?」

 子どもらしい独断と偏見に満ちた会話をしながら、われわれはその家へと向かった。誰もが心に躊躇いを感じていたが、誰も自分から臆病者のレッテルをもらうわけにはいかないと思っていた。われわれ数名は日本海側の秋らしい曇天の夕刻、その家の雑草に溢れた庭先に侵入した。

 耳をつんざくような叫び声に皆が慌てて踝を返したのは、庭に足を踏み入れた直後だったように記憶する。

 娘が窓からほとんど機関銃のような意味のない咆哮を上げていた。誰もが真っ青な顔で転ぶように庭を飛び出した。娘の顔が見えなくなるほど遠くへ駆け逃げるまで、生きた心地がしなかった。それほど娘の叫びは常軌を逸していた。

 悪いことを、ひどいことをしたのだ。深い思慮もなく自責の念に駆られたのは、あのときが最初だったかも知れない。自分たちは庭の雑草を踏みにじるように何かを踏みにじった、ということを確信していたが、何を踏みにじったかははっきり自覚しないまま、あの出来事を忘れてしまったように思う。


 気がつけば、私はハンドルに腕を乗せたまま青信号を見つめていた。後続の車がクラクションを鳴らす前に、私は慌ててギアを動かしアクセルを踏んだ。あの日から、自分はさほど成長していない。 
 
 



 
コメント (6)
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