た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

うつつのきれめ

2005年11月27日 | essay
 多忙と多忙の間隙を縫って、崖の湯に車を走らせる。
 何しろ標識のないような山中高いところにその温泉場は存在する。これが二度目でも、やっぱり人に道を尋ねないでは辿り着けなかった。
 何が有名、という温泉でもないが、山腹にせり出した露天風呂から遠く松本平の南端の町並みを見下ろすことができる。
 夕暮れ時だが、空いていた。
 湯につかった自分の手の甲を見ると、肌が荒れているのがわかる。心身を酷使しているのだろう。まさかただ年齢のせいとは言えまい? 脚を伸び縮みさせると筋肉が軋む。肩の凝りはもう解れたようだ。白木の湯船に両腕を乗せて、眼下の町並みを眺める。

 「まあ、順番だで。こんなものは順番だでな」
 湯船の隅で、老人が両手で顔を擦りながら、老人の息子くらいの年齢の男につぶやいている。だが聞き手は息子ではあるまい。近所の知り合いだろうか。
 彼は肉付きのよい胸から上を晩秋の冷気に当てながら、老人の言葉にうなづく。
 「天寿を全うしたってことだあな、ほんと。うちではみんなそう思ってるだ」
 「順番だで」
 「だけんど、そう考えたら、富岡さんちんとこは、ちと早かったなあ。うちはいいけど、富岡さんちんとこはなあ」
 ほんのわずか沈黙があった。
 老人の掠れた声が届いた。
 「それも順番だで」

 私は二人の会話を小耳に挟みながら、そのとき目に映るものに驚いていた。遠くの平野に、一本の大きな河の流れが現れたのだ。ずいぶん大きい。きらきらといくつもの黄色い光が明滅し、よどみなく北から南に流れていく。大量の蛍が河を流されていく様を思わせる。
 命の河。

 
 「みんないつか順番が回って来るもんだでな」


 獣が短く鳴いた。森の奥の方だ。私は眼鏡を敷石の上に置いていたことを思い出し、腕を伸ばした。
 眼鏡をかけた途端に乱視が治り、光の広大な流れは消え、南松本の夜景が輪郭を成した。

 もう大分と湯につかりすぎたらしい。私は老人と男の二人を残して、湯船から立ち上がった。立った瞬間、軽い立ちくらみに襲われた。
 闇の奥で、正体を知らぬ獣がまた鳴いた。
コメント (4)
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