青年は泣きながら笑った。
四〇年ほど前までの縄手通りは、露天商のひしめく松本随一の繁華な盛り場であった。年中お祭りのような気分を味わえるところだったと、当時を知る人は言う。何かしら人をわくわくさせるものに満ち溢れていた。ときに見世物がかかり、河川敷では野外音楽の催し物があり、映画に、買い物に、そぞろ歩きに、連日大勢の市民が押し掛けた。喧嘩や酔っ払いの騒動もしょっちゅうであった。
往年の面影を今に見出すのは難しい。古道具屋に並ぶのは、多くがかつて価値を帯びていたものである。昔の指輪、時代遅れの手鏡、色あせた引き出し。探し物は、そう簡単には見つからない。
静かな夜が更けゆく。東寿しの店内には、袖まくりしてビールを啜る客一人、カウンターの中で腕組みをする店主一人。牛尾青年は先程帰ったばかりである。
田中と呼ばれる男は、グラスを置き、長い前髪を掻き上げた。形の良い鼻を擦り、溜め息を一つつく。それから彼は声に出した。
「もういいですよ。牛尾さん。出てきて下さい」
カウンターの奥の厨房からおずおずと出てきたのは、くたびれた服を着て、頬の病的にこけた、白髪の男である。
目の縁には泣き腫らした跡。
「お世話になりました、JK」
彼は掠れた声で、深々と頭を下げた。
田中改めJKと呼ばれる私立探偵の男は、頭痛のようにひたいを押さえた。
「いいえ。私もあなたのお金でずいぶんご馳走になりましたから。でもねえ。本当にいいんですか、これで」
「ええ。いいんです」
「息子さんは、今日のご馳走と眼鏡があなたからのプレゼントだってことを、一生知らないまま過ごすことになりますよ」
「いいんです。私からだとわかったら、決して受け取らなかったでしょう。これでいいんです。三代目、あんたにも本当に本当にお世話になった」
「確かに、いい演技だった」JKも笑ってつけ加えた。
店主は首と手を振った。
「牛尾さん、そんなに頭を下げてもらっちゃ、何しろ今日唯一のお客さんだったんですから。こちらこそまいどです。この店のことを忘れずにいていただいて、ありがとうございます」
「使える金があったら、以前のように毎週でも来たいんだが」
そう言って初老の男は力なく笑った。
「横浜に行かれるとか」とJK。
「ええ、弟がいますので。そこで、一から出直します。私の歳では、一からってわけにもいかないでしょうが」
「大丈夫ですよ」
JKは椅子を鳴らして立ち上がった。
「大丈夫です。だってそうでしょう? 今回それを行動でお見せになったじゃないですか。息子さんに対する、あなたのその愛情を失わない限りは、大丈夫です。すみません、僭越なことを言って。牛尾さん。あなたはこれからまた汗を流して金を貯め、いつの日か再び、息子さんに寿司か何かを食べさせたいと思われることでしょう。そのときに・・・そのときにまたもし、私に依頼したくなったら、ご連絡ください。これはなかなか美味しい仕事なのでね」
JKは上着を羽織りながら、いたずらっぽく笑った。
「でも、次回は、あなた方親子二人が会食する番ですよ」
牛尾はすがるように問い掛けた。「あれは・・・いつか、あれは、私と会ってくれるでしょうか」
JKは立ち止った。前髪を掻きあげてから嘆息する。それから振り返った。
「わかりません。人にはなかなか忘れられないものもあるでしょう・・・一生涯背負い続けざるをえないものも、中にはあるでしょう」
カウンターの隅に飾られたホタルブクロの花に、彼は視線を落とした。淡い赤紫色で、包み込むように咲く花である。
「でも、どうかな・・・どんな過去も、思い出も、いつの日か、違って見えてくるもんじゃないですか。ありきたりの物や、風景だって、そうなんですから」
誰もが沈黙した。それから、短い別れの挨拶が交わされた。
からからと、引き戸が閉まった。(おわり)
四〇年ほど前までの縄手通りは、露天商のひしめく松本随一の繁華な盛り場であった。年中お祭りのような気分を味わえるところだったと、当時を知る人は言う。何かしら人をわくわくさせるものに満ち溢れていた。ときに見世物がかかり、河川敷では野外音楽の催し物があり、映画に、買い物に、そぞろ歩きに、連日大勢の市民が押し掛けた。喧嘩や酔っ払いの騒動もしょっちゅうであった。
往年の面影を今に見出すのは難しい。古道具屋に並ぶのは、多くがかつて価値を帯びていたものである。昔の指輪、時代遅れの手鏡、色あせた引き出し。探し物は、そう簡単には見つからない。
静かな夜が更けゆく。東寿しの店内には、袖まくりしてビールを啜る客一人、カウンターの中で腕組みをする店主一人。牛尾青年は先程帰ったばかりである。
田中と呼ばれる男は、グラスを置き、長い前髪を掻き上げた。形の良い鼻を擦り、溜め息を一つつく。それから彼は声に出した。
「もういいですよ。牛尾さん。出てきて下さい」
カウンターの奥の厨房からおずおずと出てきたのは、くたびれた服を着て、頬の病的にこけた、白髪の男である。
目の縁には泣き腫らした跡。
「お世話になりました、JK」
彼は掠れた声で、深々と頭を下げた。
田中改めJKと呼ばれる私立探偵の男は、頭痛のようにひたいを押さえた。
「いいえ。私もあなたのお金でずいぶんご馳走になりましたから。でもねえ。本当にいいんですか、これで」
「ええ。いいんです」
「息子さんは、今日のご馳走と眼鏡があなたからのプレゼントだってことを、一生知らないまま過ごすことになりますよ」
「いいんです。私からだとわかったら、決して受け取らなかったでしょう。これでいいんです。三代目、あんたにも本当に本当にお世話になった」
「確かに、いい演技だった」JKも笑ってつけ加えた。
店主は首と手を振った。
「牛尾さん、そんなに頭を下げてもらっちゃ、何しろ今日唯一のお客さんだったんですから。こちらこそまいどです。この店のことを忘れずにいていただいて、ありがとうございます」
「使える金があったら、以前のように毎週でも来たいんだが」
そう言って初老の男は力なく笑った。
「横浜に行かれるとか」とJK。
「ええ、弟がいますので。そこで、一から出直します。私の歳では、一からってわけにもいかないでしょうが」
「大丈夫ですよ」
JKは椅子を鳴らして立ち上がった。
「大丈夫です。だってそうでしょう? 今回それを行動でお見せになったじゃないですか。息子さんに対する、あなたのその愛情を失わない限りは、大丈夫です。すみません、僭越なことを言って。牛尾さん。あなたはこれからまた汗を流して金を貯め、いつの日か再び、息子さんに寿司か何かを食べさせたいと思われることでしょう。そのときに・・・そのときにまたもし、私に依頼したくなったら、ご連絡ください。これはなかなか美味しい仕事なのでね」
JKは上着を羽織りながら、いたずらっぽく笑った。
「でも、次回は、あなた方親子二人が会食する番ですよ」
牛尾はすがるように問い掛けた。「あれは・・・いつか、あれは、私と会ってくれるでしょうか」
JKは立ち止った。前髪を掻きあげてから嘆息する。それから振り返った。
「わかりません。人にはなかなか忘れられないものもあるでしょう・・・一生涯背負い続けざるをえないものも、中にはあるでしょう」
カウンターの隅に飾られたホタルブクロの花に、彼は視線を落とした。淡い赤紫色で、包み込むように咲く花である。
「でも、どうかな・・・どんな過去も、思い出も、いつの日か、違って見えてくるもんじゃないですか。ありきたりの物や、風景だって、そうなんですから」
誰もが沈黙した。それから、短い別れの挨拶が交わされた。
からからと、引き戸が閉まった。(おわり)