夕暮れ縄手をぶらり歩いて
小路を曲がれば緑町
昔々のなつかし話に
暖簾をくぐろか『東寿し』
自転車は、歩行者の眼前に、突然現れた。
短いブレーキ音。控え目な悲鳴。横転。そして静寂。商店街の狭い通りで、自転車と歩行者は、思いの外静かに衝突する。
呆然とうずくまるのは、学生らしき年齢の若者である。倒れた自転車から這い出したのは、三十代のスーツ姿の男。ひどく狼狽している。
「うわあごめんなさい! 怪我とかないですか?」
「大丈夫です」彼が呆然としているのは、周りがよく見えないからである。「すみません、眼鏡がどこかに落ちてませんか」
「眼鏡? うわあ!・・・本当にごめんなさい!」
横倒しになった自転車のハンドルは、黒ぶち眼鏡の左レンズを綺麗に八方位に割っていた。
誰だ誰だ、縄手通りを自転車に乗って通る馬鹿者は、ざまは無い、追突事故を起こしてやがらあ、という顔を一様にした見物人たちが、餌にたかる蟻のように、早くも周りに人垣を作り始めていた。
縄手通りは全長二百メートルほどの商店街である。成立は江戸時代かそれ以前にさかのぼる。ただしその名の由来となると、外堀を作るときの測量用語から来ているとか、縄のように細い通りだからとか、今一つはっきりしない。道の左右には、どこの誰が買うのか想像もつかない古道具などを売る店が所狭しと軒を並べている。行き交う人々が足を止めるのは、もっぱら、何かを買うためと言うより、かつてどこかで似たものを目にしたような、不思議な懐かしさに浸るためである。ここでは西日も長く差し込む。
神社を過ぎてそば屋の角を左に曲がり、縄手通りを外れると、緑町と呼ばれる、さらにひっそりとした路地に入る。その一角に、東寿しの看板が見える。
五月のたそがれどきである。
からからと引き戸を開ければ、ひと時代前の、いかにも寿司屋らしいあっさりとした内装に迎えられる。六人掛けのカウンター席にはすでに酔客が二人。真新しい銀縁の眼鏡を掛けた青年と、上着を脱いでカッターシャツの袖をまくり上げた男。
「久保さん、貝類も何かいこう」
「もうお腹いっぱいです。田中さんどうぞ」
「そりゃない。そりゃないなあ。あと十貫か二十貫は食べてもらわないとね。罪滅ぼしにならないですよ、本当に。大将、この人にビールと、私には酒のお代り。それにアオヤギとつぶ貝と・・・そうだな、アジが美味しかったから、アジと、それぞれ二人前ずつ。そうだ、ウニも気に入ってもらえたから、ウニももう二人前お願い」
「あいよ」
店主は手際よく寿司を握る。
しばらく二人ともその作業を眺める。
久保青年が赤い顔で嘆息した。「幸せだなあ」
「ふむ」と袖まくりした田中。
「え? だって、幸せですよ。眼鏡まで新しく買ってもらって」
「私が壊したんでしょ」
「でもフレームまで替えてもらって。フレームは壊れてなかったんですよ。そりゃちょうど替え時だったから、すごく嬉しかったですけど。おまけに寿司屋でご馳走にまでなって。そんな体験は・・・」
「初めてじゃないでしょう」
久保青年はびっくりして同伴者を見た。「え、なぜ」
「何となく。何となくですよ。最初の注文の仕方からかなあ。白身から光り物、赤身と来たでしょ。それに、何というか、食べ方が様になっている」
青年は難しい顔をして寿司台を見つめていたが、ふっと笑顔を作った。
「実はですね、田中さん」
「はい」
「この店自体が、初めてじゃないんです」
「え?」
今度は田中が驚く番である。彼は自分と同じく目を丸くした店主と顔を見合わせた。
店主は腕を組んで唸る。
「うーん、来店されたときから、ちょっと面影が気になったんだけど・・・でも私の記憶の人と、名字が違うんだなあ」
「私が中学生になるまでは、久保ではなくて牛尾でした」
「やっぱり!」店主は手を打った。「テーラーウシオの息子さん!」
「そうなんです」赤い顔は更に赤らんだ。
「何だ何だ、大将、知り合いかい」と田中は呆れて二人を交互に見比べる。
テーラーウシオの息子は目を伏せてビールを啜った。(つづく)
小路を曲がれば緑町
昔々のなつかし話に
暖簾をくぐろか『東寿し』
自転車は、歩行者の眼前に、突然現れた。
短いブレーキ音。控え目な悲鳴。横転。そして静寂。商店街の狭い通りで、自転車と歩行者は、思いの外静かに衝突する。
呆然とうずくまるのは、学生らしき年齢の若者である。倒れた自転車から這い出したのは、三十代のスーツ姿の男。ひどく狼狽している。
「うわあごめんなさい! 怪我とかないですか?」
「大丈夫です」彼が呆然としているのは、周りがよく見えないからである。「すみません、眼鏡がどこかに落ちてませんか」
「眼鏡? うわあ!・・・本当にごめんなさい!」
横倒しになった自転車のハンドルは、黒ぶち眼鏡の左レンズを綺麗に八方位に割っていた。
誰だ誰だ、縄手通りを自転車に乗って通る馬鹿者は、ざまは無い、追突事故を起こしてやがらあ、という顔を一様にした見物人たちが、餌にたかる蟻のように、早くも周りに人垣を作り始めていた。
縄手通りは全長二百メートルほどの商店街である。成立は江戸時代かそれ以前にさかのぼる。ただしその名の由来となると、外堀を作るときの測量用語から来ているとか、縄のように細い通りだからとか、今一つはっきりしない。道の左右には、どこの誰が買うのか想像もつかない古道具などを売る店が所狭しと軒を並べている。行き交う人々が足を止めるのは、もっぱら、何かを買うためと言うより、かつてどこかで似たものを目にしたような、不思議な懐かしさに浸るためである。ここでは西日も長く差し込む。
神社を過ぎてそば屋の角を左に曲がり、縄手通りを外れると、緑町と呼ばれる、さらにひっそりとした路地に入る。その一角に、東寿しの看板が見える。
五月のたそがれどきである。
からからと引き戸を開ければ、ひと時代前の、いかにも寿司屋らしいあっさりとした内装に迎えられる。六人掛けのカウンター席にはすでに酔客が二人。真新しい銀縁の眼鏡を掛けた青年と、上着を脱いでカッターシャツの袖をまくり上げた男。
「久保さん、貝類も何かいこう」
「もうお腹いっぱいです。田中さんどうぞ」
「そりゃない。そりゃないなあ。あと十貫か二十貫は食べてもらわないとね。罪滅ぼしにならないですよ、本当に。大将、この人にビールと、私には酒のお代り。それにアオヤギとつぶ貝と・・・そうだな、アジが美味しかったから、アジと、それぞれ二人前ずつ。そうだ、ウニも気に入ってもらえたから、ウニももう二人前お願い」
「あいよ」
店主は手際よく寿司を握る。
しばらく二人ともその作業を眺める。
久保青年が赤い顔で嘆息した。「幸せだなあ」
「ふむ」と袖まくりした田中。
「え? だって、幸せですよ。眼鏡まで新しく買ってもらって」
「私が壊したんでしょ」
「でもフレームまで替えてもらって。フレームは壊れてなかったんですよ。そりゃちょうど替え時だったから、すごく嬉しかったですけど。おまけに寿司屋でご馳走にまでなって。そんな体験は・・・」
「初めてじゃないでしょう」
久保青年はびっくりして同伴者を見た。「え、なぜ」
「何となく。何となくですよ。最初の注文の仕方からかなあ。白身から光り物、赤身と来たでしょ。それに、何というか、食べ方が様になっている」
青年は難しい顔をして寿司台を見つめていたが、ふっと笑顔を作った。
「実はですね、田中さん」
「はい」
「この店自体が、初めてじゃないんです」
「え?」
今度は田中が驚く番である。彼は自分と同じく目を丸くした店主と顔を見合わせた。
店主は腕を組んで唸る。
「うーん、来店されたときから、ちょっと面影が気になったんだけど・・・でも私の記憶の人と、名字が違うんだなあ」
「私が中学生になるまでは、久保ではなくて牛尾でした」
「やっぱり!」店主は手を打った。「テーラーウシオの息子さん!」
「そうなんです」赤い顔は更に赤らんだ。
「何だ何だ、大将、知り合いかい」と田中は呆れて二人を交互に見比べる。
テーラーウシオの息子は目を伏せてビールを啜った。(つづく)
テーラーウシオの息子は目を伏せてビールを啜った。
日は暮れた。
店の入口のガラス戸には宵闇ばかり映る。人影はなかなか映らない。
東寿しは暇である。
牛尾青年が視線を落したまま、ぽつりぽつりと語った身の上話の大意は、およそ次の通りである。
テーラーウシオは六年ほど前に潰れた緑町の洋服店である。一時期は大変羽振りが良く、当時社長だった彼の父親は、一人息子の彼と彼の母親を伴い、三人で東寿しにしばしば姿を現した。社員を十人くらい連れ、店を貸し切ることもあった(「あの頃はお父さんにほんと落としていただきました。時代がいい時代でしたねえ」と店主がしみじみとして口を挿み、ついでに閑散とした今の店内を睨んで鼻息を荒げた)。
しかしバブルがはじけ、経営が傾き始めると、それと呼応するように、家庭内の歯車が軋み始めた。父親の飲酒量が日を追って増えた。外で女を作り、内では母親に暴力を振るうようになった。父親は別人格になった。泥酔して深夜に帰宅し、罵詈雑言を吐きながら母親に手を上げる度に、牛尾少年は身をもって彼女を庇おうとした。父親に突き倒され、柱で腰をしたたか打ったこともあった。彼が中学へ上がる年に店は倒産。父親は名も知らぬ女と蒸発。あとに残された母親は、借金取りに追い立てられながら、一人息子を養うために昼夜なく働きづめに働いた。三年前に過労で倒れ、帰らぬ人となる日まで。
「父が家を出て以来」
牛尾青年はカウンターに両腕を突いた。指先に力が籠る。
「父には、一度も会っていません。母親の葬式にも呼びませんでした。当然。あの男のことは、死ぬまで許せないと思います。でも」
赤い顔を上げ、彼は狭い店内をぐるりと見渡す。
「でも、こうして懐かしい場所で食べていると、ああ、家族三人で幸せだった時代があったんだ、確かにあの頃にはあったんだなあって・・・すみません、俺何話してんだろ。暗い話ですよね。すみません、本当に黙っておくつもりだったんです。酔っぱらったんですね」
田中は首を横に振った。長い前髪に隠れた目は、充血していた。
「いや、よく話してくれました。よくぞ話してくれました。ふむ・・・うん。さ、飲んで! 食べて! くぼ・・・いや、牛尾さん。駄目ですよ。そんな話を聞かされると、あと十人前は食べてもらわないとね。ちょっとこっちの気が済みませんよ」
「はは、どうしてですか田中さん。私の家族の問題ですよ」
「うーん、何て言うかなあ。誤解して欲しくないですが、何だか、あなたのお父さんの代わりに、詫びたい気分なんですよ」
「会いたい、と何度か言ってきたんですけど」
聞き取りにくい声だった。田中は彼の横顔を覗き込んだ。「え?」
「父親です。会いたいって、電話で、私に・・・とてもくたびれた声でした。五、六年で、あんなに声って変わるのかなあって・・・でも、会いませんでした。どうしても会いたいって言われたけど、断わりました。電話を切ってしまいました。できないんです。許せないんですよ。絶対に許せないんですよ」
ほとんど涙声である。答える田中の声も震えた。
「いいから、飲んで! 大将、ビールお代り!」
「どうしても、どうしても、どうしても許せないんですよ」
「さあぐっと飲んで! え? 許さなくていいから。そうそう。許したくなかったら、許さなくていいんです。何もかもすべて。お父さんのことも、私が今日、自転車であなたに突っ込んで、あなたの眼鏡を叩き割ったこともね!」
青年は泣きながら笑った。(つづく)
日は暮れた。
店の入口のガラス戸には宵闇ばかり映る。人影はなかなか映らない。
東寿しは暇である。
牛尾青年が視線を落したまま、ぽつりぽつりと語った身の上話の大意は、およそ次の通りである。
テーラーウシオは六年ほど前に潰れた緑町の洋服店である。一時期は大変羽振りが良く、当時社長だった彼の父親は、一人息子の彼と彼の母親を伴い、三人で東寿しにしばしば姿を現した。社員を十人くらい連れ、店を貸し切ることもあった(「あの頃はお父さんにほんと落としていただきました。時代がいい時代でしたねえ」と店主がしみじみとして口を挿み、ついでに閑散とした今の店内を睨んで鼻息を荒げた)。
しかしバブルがはじけ、経営が傾き始めると、それと呼応するように、家庭内の歯車が軋み始めた。父親の飲酒量が日を追って増えた。外で女を作り、内では母親に暴力を振るうようになった。父親は別人格になった。泥酔して深夜に帰宅し、罵詈雑言を吐きながら母親に手を上げる度に、牛尾少年は身をもって彼女を庇おうとした。父親に突き倒され、柱で腰をしたたか打ったこともあった。彼が中学へ上がる年に店は倒産。父親は名も知らぬ女と蒸発。あとに残された母親は、借金取りに追い立てられながら、一人息子を養うために昼夜なく働きづめに働いた。三年前に過労で倒れ、帰らぬ人となる日まで。
「父が家を出て以来」
牛尾青年はカウンターに両腕を突いた。指先に力が籠る。
「父には、一度も会っていません。母親の葬式にも呼びませんでした。当然。あの男のことは、死ぬまで許せないと思います。でも」
赤い顔を上げ、彼は狭い店内をぐるりと見渡す。
「でも、こうして懐かしい場所で食べていると、ああ、家族三人で幸せだった時代があったんだ、確かにあの頃にはあったんだなあって・・・すみません、俺何話してんだろ。暗い話ですよね。すみません、本当に黙っておくつもりだったんです。酔っぱらったんですね」
田中は首を横に振った。長い前髪に隠れた目は、充血していた。
「いや、よく話してくれました。よくぞ話してくれました。ふむ・・・うん。さ、飲んで! 食べて! くぼ・・・いや、牛尾さん。駄目ですよ。そんな話を聞かされると、あと十人前は食べてもらわないとね。ちょっとこっちの気が済みませんよ」
「はは、どうしてですか田中さん。私の家族の問題ですよ」
「うーん、何て言うかなあ。誤解して欲しくないですが、何だか、あなたのお父さんの代わりに、詫びたい気分なんですよ」
「会いたい、と何度か言ってきたんですけど」
聞き取りにくい声だった。田中は彼の横顔を覗き込んだ。「え?」
「父親です。会いたいって、電話で、私に・・・とてもくたびれた声でした。五、六年で、あんなに声って変わるのかなあって・・・でも、会いませんでした。どうしても会いたいって言われたけど、断わりました。電話を切ってしまいました。できないんです。許せないんですよ。絶対に許せないんですよ」
ほとんど涙声である。答える田中の声も震えた。
「いいから、飲んで! 大将、ビールお代り!」
「どうしても、どうしても、どうしても許せないんですよ」
「さあぐっと飲んで! え? 許さなくていいから。そうそう。許したくなかったら、許さなくていいんです。何もかもすべて。お父さんのことも、私が今日、自転車であなたに突っ込んで、あなたの眼鏡を叩き割ったこともね!」
青年は泣きながら笑った。(つづく)