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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿)  ~16~

2015年09月22日 | 連続物語

 『逃げるぞ』
 それからのことを、ヒロコはあまり覚えていない。腕を引っ張られ、強引に砂地を走らされたはずだ。一頭のラクダに乗せられ、自分のすぐ背後にシャイフも跨った。砲弾の飛び交う中をラクダは猛り狂ったようにじぐざぐに走った。こういう混乱した時は、ジープなんかよりラクダの方がよほど目立たない、というシャイフの目算があったのかも知れない。とにかく、爆発で跳ね上がった砂をかぶり、脇腹すれすれのところを機関砲が突き抜け、何が何だかわからない状況で、幾度かほとんど吹き飛ばされたような気さえしたが、体のどこにも痛みを覚えていないので、してみると無事だったのだと言えよう。
 気がつけば、彼女とシャイフはラクダを捨てて岩山を登っていた。促されるままに、彼女は必死で岩をつかみ、ざらざらした山肌を這い上った。肘をすり剥き、血がにじんだ。生きたい、という本能的衝動だけで手足を動かしていた。疲れを意識する余裕さえなかった。やがて巨大な岩と岩の隙間に、大人が背を屈めて入れるだけの洞穴が現れた。二人はその中に転がり込んだ。
 冷たいごつごつした地面に伏し、肩で息を切らせながら、ヒロコは自分が、身に着けていた豪華な衣装や装身具のほとんどを振り捨ててきたことに気付いた。
 薄紫のベールだけは辛うじて頭にかぶったまま、全身砂まみれの惨めな格好で、彼女は今、洞穴にいた。男と二人きりで。
 嫌な予感を、ヒロコは覚えた。
 洞穴の内部は外から見るよりも広い。以前に誰かがそこで焚火をした跡もある。光が差し込まないので夜のように暗く、すぐ隣にいるシャイフの表情さえはっきりと見えない。
 彼に腕をつかまれ、ヒロコは痙攣した。有無を言わせぬ力強い手だった。汗ばんで上気し、鋼鉄のように固かった。
 外では、いまだ爆撃が続いている。その音は地鳴りのように洞窟の中にまで響き渡る。
 シャイフは息を荒げながら、囁くように言った。
 「You OK?」
 彼の知るほとんど唯一の英語である。大丈夫かと訊いてきたのだ。ヒロコはまだ頭がぼんやりしている。頭痛と吐き気も収まっていない。
 「You, fire,OK?」
 燃やす能力は復活したかと訊いているのだろう。ヒロコは力なく首を横に振った。
 暗がりがひんやりと重みを増した。
 生唾を呑み込む音。
 腕を握る男の手にさらに力がこもった。痛い。病的にかっと見開いた目で、彼は東洋の女を見つめた。
 『わが軍はお終いだ。我々もお終いだ。だが、私の望みは一つだけ叶わせる』
 アラビア語だったが、内容は明確にヒロコの頭に届いた。オーラである。彼は再び、強力なオーラで伝えてきたのだ。
 ヒロコは激しく怯えた。彼の手を振り解こうともがいたが、叶わなかった。
 自分はなんでこんな目に遭うんだろう。男に強く抱き寄せられながら、ヒロコは心に思った。ベールが黒髪から落ちた。武骨な手が彼女の小さな背中をまさぐる。なんでこんな目に。自分が悪いのだろうか。いったい何が悪かったのだろう。人を燃やしたりするようなバケモノに生まれたこと?
 <それって、私が悪いの? じゃあ私はどうすればよかったの?>
 男の熱い唇が彼女の唇に吸い付いた。情熱的で、官能的である。
 <この人に抱かれながら爆撃されて死ねば、それはそれでいいのかも>
 そんな考えがふと脳裏をよぎった。自分の人生に早く区切りをつけたい、という前から心に巣食う願望も、それを後押しした。
 息苦しくなった。男の手が彼女の尻を激しく撫でた。
 腐ったキャベツに顔を押し付けられたような、どうしようもない嫌悪感が、彼女の腕に尋常でない力を与えた。
 男の分厚い胸板を、どこにそんな力が残っていたのか、というほどの勢いで、突き放した。
 <死ね!>
 彼女はありったけの念を込め、男が燃え上がることを願った。しかし、燃えない。何一つ変化はない。多国籍軍のシールドは完璧に彼女の能力を封鎖しているのだ。
 奈落の底に落ちるような絶望感が彼女を襲った。
 アブドゥル=ラフマーンは汗だくの顔でにやりと笑い、腕を大きく振り上げると、手のひらで日本人女性の頬を思い切り叩いた。ぱん、と音がした。意識が遠のくほどの痛みを覚え、ヒロコはのけ反った。
 大きな影が彼女にのしかかる。さらに何発か、彼女の抵抗の意志を根こそぎ奪うかのように、両頬に張り手を浴びた。そのたびに彼女は短い叫び声を上げた。
 腫れ上がった頬に涙が溢れ出た。
 <嫌! 嫌!>
 その時ふと、背後から肩に手を掛けられた感覚を覚えた。それは今、まさに自分に覆い被さろうとする男の手ではない。がりがりに痩せたほとんど骨だけの手。どこか懐かしい感覚である。死神に手をかけられたような冷たさがあった。ああ、自分は死ぬのだ、と彼女は思った。途端に、体の芯を捻じ曲げられるような衝撃を覚えたが、その衝撃すら、なぜだか懐かしいものを感じた。
 次の瞬間、彼女は忽然としてその場から姿を消した。
 完全に消えたのだ。
 踏みつけられた薄紫のシルクのベールだけが、後に残った。
 驚愕のあまり声も出ないシャイフを、F15のロケット弾が洞穴ごと跡形もなく吹き飛ばしたのは、それから十秒と経たない後のことであった。

♦    ♦    ♦


 (つづく)



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