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二軒目は駅前まで歩いて、『華園』という中華料理屋に入った。松本らしさを教えると言う割には、案内する先がアイリッシュパブだったり中華料理屋だったりと、今一つ地域性に欠ける気がしないでもない。本田博に言わせると、これこそが今の松本なのだそうだ。おそらくただ、自分の行きつけの店というだけの理由だろう。
天井の高いだだっ広い店で、客はほとんどいない。皿数が六つばかし、瓶ビールが一本テーブルに並んだ。我々二人は戦場から帰還してきた兵士のように、それぞれの椅子の背もたれに上体を深く沈めた。初めて出会った人と意気投合し、互いにはしゃいでしゃべり合うが、やがて話のネタが尽き、どっと来る疲労感と共に、信頼関係はそんなに簡単には築けないことを再確認することがある。そのときの我々はまさしくそれであった。酒臭い息を吐き、焦点の定まらない目をしばたたいて、今更ながら思う。だいたいこいつは何なんだ。
私は深い吐息をついた。
「ビールか。これ以上飲めるかな」
本田博は据わった目つきで私を軽蔑したように睨み、しゃくれた顎をさらに突き出して舌打ちした。「なんだおい、もう酔っぱらったのか。日本中旅している割にゃ大したことねえな」
「馬鹿にするな。そんなに酒が強くないんだ」
「だから馬鹿にするんじゃねえか。おい、そんなことでほんとに日本一周できるのか?」
私は失った力を取り戻したかのように上体を起こし、奴のグラスにビールを注ぎ返した。
「日本一周が目的じゃない」
「じゃあこの街に留まれ」
「店を手伝えってことか」
「共同経営だ。お前も身銭を切れ」
「身銭なんてあるわけないだろ。俺は旅行者だぞ」
「ちぇっ、貧乏旅行者か。それでもいい。俺の店を手伝え」
私は片肘を突き、相手の顔をまじまじと眺めた。
「どうしてなんだ? 今一つわからない。どうして、あんたは今日会ったばかりの人間をそんなに信用するんだ」
は! と一つ、笑い声とも掛け声ともとれる叫びを上げると、彼は天井から落ちてくる何かを受け取るかのように両手を掲げてみせた。
「信用してるんじゃない。利用してんだ」
「何」
「ここは料理が安くてうまい。が、女っ気がなくていかん。よし、おい、あとで女のいる店でも行くか」
「利用してるってどういうことだ」
「怒ったのか? お前は。短気だなあ。おい、お前がどこの馬の骨か、そんなの、今の今出会ったばかりの俺にわかるわけなかろうが。お前にとっても、俺がどこの馬の骨かなんてわからんだろう。当たり前のことじゃねえか。人間同士なんてしょせんそんなもんだ。出会って一日目だろうが、一年目だろうが、何十年一緒に暮らそうが、わからん部分はどれだけ日数を過ごしてもわからんまま。逆に言やあ、わかる部分は、ひとこと言葉を交わすだけでもわかる。そんなもんだろ、人間同士なんて。お前、思ったより呑み込みの悪い奴だな。よし、じゃあお前にわかるように教えてやろう」
本田博は失礼極まる言葉を吐くと、ぐっと身を乗り出し、私に酔った顔を近づけた。
「これはチャンスなんだ。いいか。これはチャンスなんだ。お互い。俺とお前、お互いにとってだ。確かに、チャンスは人生に一度きりじゃない。まだいくらでもある。だが、これも大事な一つのチャンスであることには間違いない。そう言ったものを一つ一つ、ぐずぐずしてるうちに逃してたら、いつの間にか爺さんになって、気付けばあと人生残すところ二日三日、なんてことになりかねないんだ。わかるか? 俺は店を開きたいと思ってる。人手が必要だ。しかし誰でも彼でもいいってわけじゃない。俺の見込みに合う人間じゃないといけない。その点、お前さんは俺の見込みに合う。と言うか、たぶん合いそうだ。しかも都合がいいことに、大学を出て、就職もせずにぷらぷら旅行している。つまり、時間と自由があるってことだ。これを利用しない手はなかろう? え? そうだろう。お前もせいぜい俺を利用すればいい。どうせあれだろ、自分探しか何かで旅行してるんだろう? だったら、ここで探してみなよ。この松本で。案外、面白いもんが見つかるかも知れんぞ。もちろん、そんなもん見つからんかも知れん。だったらそれまでのことだ。ああ、ここは合わんな、と思ったらさよならすりゃあ済む話じゃねえか。お前は再び旅に出ればいい。俺は別な奴を探す」
片手を振り上げながらそう言いきると、彼はグラスのビールを飲み干し、空瓶を振って、「にいちゃん、もう一本!」と厨房に向かって叫んだ。
私は腕組みをし、うめき声を上げ、考え込んだ。
(つづく)