「しっ、来るわ」
「ヒロコ」
入口の布がさっと開いた。アブドゥル=ラフマーンが護衛兵を従えて姿を現した。
ヒロコの変わり身は素早かった。彼女は瞬時に手のひらで頬の涙を拭い、しっかり身を起こし、別人のように生き生きとした笑顔を浮かべて彼らを迎え入れた。
族長は鋭い視線を二人に向けた。黒い鼻髭が引き攣ったように動く。
『逃げることを勧めたな』
彼の言葉を兵士が英訳する。それに答えたのは、うろたえた織部ではなく、ヒロコ自身であった。彼女は片言の英語ながらしっかりと張りのある声で答えた。
『違うわ。元気を出せって、言ってくれたの』
『逃げることを勧められたろう』
『違うわ。違うわ。もちろん確かに、ここにいて大丈夫か、と彼は聞いたわ。彼はそう聞いたけど、私は逃げない。そんなことには決してならないわ。もう大丈夫。もうほんとに大丈夫。私、とても長い間、日本人に会ってなかったから。とても長い間、私は孤独だった。日本人に会えて、話して、よかった。私はもう元気。とっても元気。ミスター・オリベのおかげよ』
まるで別人のような快活ぶりである。笑顔を振りまき、はしゃぐように喋った。アブドゥル=ラフマーンは眉を顰めた。織部も、彼女の豹変ぶりに唖然とした。
ヒロコは懸命に復活を演じた。
『もう大丈夫。今度の戦いにも出られるわ。ね、見て。ミスター・オリベと話して、私こんなに元気よ』
『では多国籍軍との戦いに備えることができるのだな』
ヒロコは激しく頷いた。
『そう。大丈夫。大丈夫だから。だから、ミスター・オリベを安全に帰してね。お願い』
シャイフは険しい目でじっとヒロコを伺っていたが、納得したように頷いた。
『よし。わかったヒロコ。この東洋人は確かに、お前を元気にさせた。お前の心に巣食う悪魔を追い出したようだ。安心しろ。彼は安全に送り返す』
『きっとよ。きっと。お願い』
『オリベ。お前の仕事は済んだ。出ろ』
問答無用であった。抗弁の余地はなかった。シャイフに顎で促され、織部は後ろ髪をひかれる思いで天幕の外に出た。すぐに兵士二人が両脇につく。虚脱感でしゃがみこみそうになるのをこらえ、織部は歩いた。彼の救出作戦は失敗したのだ。しかし彼自身の命はひとまず、ヒロコによって救われた。ヒロコは自分よりも、同胞人を救う道を選んだのだ。
炎天の下、織部は下唇を強く噛んだ。
<無力だ・・・・なんて無力なんだ俺は! 畜生! 何のためにここに来たんだ? 何てこった・・・あの子の目! 可愛そうに。あんな重荷を背負って・・・人殺しという重荷だ。一生下ろせない重荷だ。ヒロコ! ヒロコ! どれだけの苦しみに君は耐えているんだ? 君はもう覚悟を決めているんだね。なんという覚悟だ。君は最後まで、自分が死ぬまで、人を殺し続けるつもりなんだな>
思い詰めたその表情は、日に焼けた皺を刻んで、醜悪であった。
二日後。
空はこれから起こるであろう殺戮など全く無関心に、美しく青紫の朝日を迎えた。
ラクダがいななく。兵士たちの号令が岩山にこだまする。
テントの片隅で、祈りを捧げる老人の声がかすかに聞こえる。
叫び声が上がった。
見上げると、青空は点々と汚れ始めていた。それぞれの点は徐々に拡大した。翼が生え、機体の姿になった。多国籍軍である。その数、七、八十。
怒号が飛び交う。人々は臨戦態勢についた。
アル・イルハム側からはまだ一機の戦闘機も飛び立っていない。しかし巨大なスカッドミサイルと、十数台の戦車の主砲、それに数多のカノン砲、迫撃砲、機関銃などの銃口が、まるで、賓客の到来を待ちわびるクラッカーの列のように、一斉に彼方の空へと向けられた。
その中心には、男八人が掲げる井げた状の神輿に乗って、ヒロコがいた。
その姿は滑稽であった。滑稽なまでに、彼女は美しかった。
宝石と刺繍の施された緋色と赤銅色の衣装を重ねてまとい、薄紫のシルクのベールを被っている。真っ白に化粧をし、豪奢な椅子に腰かけ、紅を引いた唇を一文字に結んで空を見つめていた。
厚化粧を望んだのはヒロコ自身であった。胸中の動揺を、なるべく表に見せたくなかったのだ。今や、彼女はこの一帯の女王であった。女王である限り、死と直面する壮絶な場面においても、威厳を失いたくなかった。それがずたずたに心を病んだ彼女に残された、わずかな誇りであった。
彼女の側には、堂々たる体躯の、アブドゥル=ラフマーン。そして百を超える護衛兵たち。皆一様に、緊張した面持ちである。
誰かが生唾を呑む音。
幾重にも重なり合った轟音が聞こえ、敵機の輪郭がはっきりと目視できるまでになった。
多い。これまでにない数の敵機である。
両手で顔を覆う者が現れた。どこからか悲鳴も聞こえた。
兵士の一人が敬礼をして叫んだ。『これ以上近づくと危険です!』
アブドゥル=ラフマーンが囁いた。『ヒロコ』
空が轟く。
ヒロコは立ち上がった。拳を握り、目を見開き、意識を集中した。
(つづく)
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