た・たむ!

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我慢についての邪視的考察

2005年04月21日 | essay
我慢できる限界値は、我慢して得られる快楽に相関する。

(よって、人は合理的な理由がなければ我慢できないのだ。

後にこれだけのものが得られるから、今これは我慢する、と。

とすると、それは我慢と言えるのだろうか? むしろ作戦だ。

後に相応の見返りを得るための。純粋な意味での我慢なんて、

誰にも──どんな意志の強い聖人にも、できっこないのだ。)



・・・これは表題の通り、我慢についての邪視的考察である。

自分が些細なことで我慢できなかったがゆえに、これを書いた。
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2 コメント

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忍耐 (あつし)
2005-04-22 08:16:22
僕も、しばしば、むうーっと腹が立ってしまうので、いかんなあと思います。

たしかに、何が得か理解しておく方が、忍耐の徳も生まれるのかもしれません。

ただ、怒りというのはほぼ例外なく不利益をもたらすことを考えれば、建設的な結果をもたらすためには忍耐の方が得だと一般的に言えるのではないかと思います。

ゆえに、忍耐には大抵合理的な理由があり、怒りには非合理な理由しかないと言えるのではないかと思います。
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あつしさんへ (overthejigen)
2005-04-22 11:14:38
 まさにその通りだと私も思うのです。「大抵」という言葉を強調しておきましょう。ただ、その認識を踏まえた上でなお、じゃあ「忍耐の徳」というのはあくまで功利的な側面で言える徳なのだな、と、逆に言えば、忍耐したほうが不利益とわかれば、その徳はその時点で放棄していいのだな、と、意地悪い悪魔が囁いたとき、私はどう言い返していいかわからなくなるのです。

 言い返さなくていいと言われるかも知れませんが、それでは、たとえば、戦争という怒りの表現形は、国益の名の下に止められなくなるのではないか、という恐れを漠然と抱くのです。
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