人と人との出会いと交流においては、互いのプライドよりも謙譲や寛容が好まれるが、国と国同士の出会いと交流においては、プライドの主張と尊重が最優先される。人と人とは結構実益で動くものだが、国と国とは実益がなくても誇りに関われば動く。人間で面子を重んじる人は少なくなったが、面子を重んじない国はない。そのようなことを以前から漠然と思っていた。二元論にきれいに納まらない場合だって多々あるが、イデオロギーという堅苦しい代物が、つねに個人のレベルではなく国家のレベルで問題になるのはなぜかと考えたら、どうも図解はそこに行き着くのである。
お隣の中国が騒がしい。騒ぎの種は我が国にあると言われている。中国側の硬直した態度はまさに、国家としての誇りがなせる業である。それをただ中華思想だ、尊大だと非難して首を横に振るだけでは、結局誇りの傷つけ合いに終わろう。かと言って日本の誇りをまったく度外視して交渉に臨むのも、国として哀れである。哀れであるだけではない。いつか必ず鬱屈し歪んだ形の誇りをこの国に呼び戻すことになろう。誰かと喧嘩して勝たなければ納まりのつかない自尊心である。戦争は国民の心の中にそうやって用意される。
政治家がよく「毅然とした態度で」と言うのは、よってもっともなところである。ただどういう態度をして「毅然」と見なすかを、よくよく吟味してみなければいけない。かっこいい、と個人を評するその評価の基準は千差万別である。それは構わない。いろんなカップルが誕生しなければ子孫は繁栄しない。しかし、こと自分たちの国家のあり方に関して、どういう姿をもってかっこいいと見なすかは、下手をするとその国の存亡をも左右する問題となる。語弊を恐れずに言えば、一個人よりも国家の方が体裁を気にするものであり、しかも体面を傷つけられたときには長く忘れないのだ。誇りが美意識につながり、正義論へと連なっていくお定まりのテーマ、つまりナショナリズムという議論のあり方がここにある。それは決して古びていないし、それを理由に軽視されてはいけないのである。
お隣の中国が騒がしい。騒ぎの種は我が国にあると言われている。中国側の硬直した態度はまさに、国家としての誇りがなせる業である。それをただ中華思想だ、尊大だと非難して首を横に振るだけでは、結局誇りの傷つけ合いに終わろう。かと言って日本の誇りをまったく度外視して交渉に臨むのも、国として哀れである。哀れであるだけではない。いつか必ず鬱屈し歪んだ形の誇りをこの国に呼び戻すことになろう。誰かと喧嘩して勝たなければ納まりのつかない自尊心である。戦争は国民の心の中にそうやって用意される。
政治家がよく「毅然とした態度で」と言うのは、よってもっともなところである。ただどういう態度をして「毅然」と見なすかを、よくよく吟味してみなければいけない。かっこいい、と個人を評するその評価の基準は千差万別である。それは構わない。いろんなカップルが誕生しなければ子孫は繁栄しない。しかし、こと自分たちの国家のあり方に関して、どういう姿をもってかっこいいと見なすかは、下手をするとその国の存亡をも左右する問題となる。語弊を恐れずに言えば、一個人よりも国家の方が体裁を気にするものであり、しかも体面を傷つけられたときには長く忘れないのだ。誇りが美意識につながり、正義論へと連なっていくお定まりのテーマ、つまりナショナリズムという議論のあり方がここにある。それは決して古びていないし、それを理由に軽視されてはいけないのである。
利益を正確に認識すれば、日中友好が望ましいことを理性的な人間であれば必ず認識できることと思います。
中国の反日デモは、国の誇りといった面から発しているのと同時に、うっぷんばらしや昔の日本の学生運動のような情熱の発散が、中国の場合政府に向けることができないので日本に向かったという点でもあるのではないかと思います。
大切なのは、日本の側で悪感情を増幅させず、大人の対処をしていくことでしょう。
非は向こうにほぼあるとは思いますが、長期的に関係を築こうと思うなら、靖国問題で向こう側がこれ以上難癖をつけることがないような処理が必要かと思います。
利益の正しい認識、これはまたこれだけで十分精査する価値のある話ですね。