また鍵を失くした。また、というのはつまり、以前も何回か失くしたことがあるからである。何回か、では済まないかもしれない。正確に数えたくもない。一番大きな鍵の失くし物は、数年前の車の鍵だった。これはキャンプ場でいざ帰ろうとするときに見つからなかったものであり、結局最後まで出てこなくて大変な思いをした。今回は朝出勤しようとしたら、職場の鍵やら家の鍵やらじゃらじゃらと四五個ぶら下がった革製のホルダーごと見当たらない。二、三十分くらいあちこち探して途方に暮れたところで、車のドアポケットから出てきた。
どうしてこうも鍵を失くすのだろうかと、考え込まざるを得ない。友人に話すと、鍵をしまう場所を決めておけと言う。鍵をしまう場所を忘れたらどうするのだと聞くと、だから忘れない場所にしまうんだと言う。鍵をしまう場所を決めたことすら忘れたらどうするんだと再度聞き返したかったが、さすがに馬鹿にされそうなので止めておいた。
鍵をしまう場所つくりはひとまず保留して、そもそもなぜ忘れるような場所に鍵を置くかという問題を突き詰めてみると、はたと気が付いた。日常的な行動範囲の中で、ほとんど無意識に鍵を手放す場面があまりに多いのだ。そもそも私は、考え事をしていたり、妄想にふけっていたりと、呆然としている時間が私生活の中に挿入されすぎる。まるでコマーシャルばかり挿入する民放放送である。はっと気が付けば以前見た映画の場面を思い出していたりする。夢見る少年で済んでいたうちはいいが、車を運転する社会人としては大変危険である。
しかし自己弁護をするなら、野生の獣たちはおそらく空想にふけらない。五感を常に鋭くして現在の状況に意識を集中させておかなければ、命が危うくなるからである。 とするなら、空想世界に遊べるのは、大脳新皮質が発達し、記憶と自由と安全を得た人間独自の贅沢なのではないか。ぼーっとする時間がある生活のほうが、その余裕のない生活よりも精神的に豊かなのではないか。
そんなことばかり考えていたら、人生の大事な鍵まで失いそうなので、この辺でロックアウト。
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