事務所の窓から向かいの建物が見える。古い造りで、一階が貸店舗で二階から上は貸店舗とアパートが混在しているらしい。名前も読めなくなったスナックの看板が二つほど掛かっている。脇の壁面を蔦が覆い、葉の落ちる冬には無数の枝が灼け焦げたような色をあらわす。
この町に雪は降らない。ただ刃物でえぐられるような寒さがある。
コロナ禍のこともあり、私の事務所を訪れる人もいない。日中は暇である。暇だから窓越しに向かいの蔦の枝を見るともなしに眺める。
ふと何かの動きが視界に入り、建物の正面に目を転じた。バブルの頃は洒落た建造物だったらしく、正面は吹き抜けで、飴色の大きなガラス窓を一階から三階までつなげた造りになっている。今はそこも空き店舗となり、何もない。ガラスの縁は白くくすみ、一部はひびが入ったのをテープで止めている。その内側に、ムクドリだろうか、黒い小さな鳥が一羽、懸命に飛び跳ねていた。
どこからどう迷いこんだのだろうか。ガラスの外に飛び出たいのか、しきりにガラスにぶつかっては落ち、落ちてはまた飛び上がり、ガラスに体当たりしている。ガラス窓から出られるはずはないのだ。むしろ来たルートを引き返すべきなのだ。しかし小さな脳ではそこに思い至らないのだろう。見ていると、だんだん体力を奪われたか、落ちてからの動きが鈍くなった。可愛そうだが、助けるすべはあるまい。あのまま力尽きて死んでしまうのだろう。ずっと見ているのも何だか辛くなり、私は窓辺を離れた。
それから半時くらい仕事に没頭したろうか。ふとまた向かいの建物を見ると、ムクドリはまだガラス窓の内側にいた。しかも、よく見ると、二羽いる。一羽が助けに来たのだろうか。気のせいか、元からいた一羽も、今は慌てず余裕を持って飛び上がったり階段にとまったりしている。やがて二羽とも奥の方へ飛んで見えなくなった。よかった。友か配偶者か知らないが、賢いムクドリに愚かなムクドリが助けられた、というところか。私は安心してデスクに戻った。
パソコンを見つめながら、ふと、果たして自分はどちらに近いだろう、と考えた。やみくもにガラスにぶつかって体力を消耗する方か。仲間を助けに颯爽と現れる方か。残念ながら前者の可能性が高いか、と苦笑を漏らしながらキーを叩いた。この閉塞感に満ちた世の中で、打開する方策もわからず、ただただ毎日同じことをして過ごしている。自分だけではない。今、コロナの北風に晒されて、世の中の大半の人がちぢこまって足踏みしている状態かも知れない。そして、そこを救いに現れる賢いムクドリのような人間は、本当にごく少数なのだろう。だから彼らは歴史に残り、英雄視されるのだろう。英雄になれない小市民である自分たちは、いつまでもガラスにぶつかりながら、年を取り、やがてちょっとあきらめ気味に死んでいくのだろう。
そんなことを考えた。
自分の考えていることも嫌になり、デスクから立ちあがり、窓辺に近づき、向かいの建物を再度見上げて、驚いた。あの二羽がまた戻っているではないか。しかもまるで、そこを自分たちの棲みかと決めたかのように、平然と。
どういうことなのだろう。二羽とも出口を見失ったのか。それとも、あとから来た一羽は出口を知っているが、元の一羽と共にそこに留まることに決めたのか。二月初旬の外は寒い。廃屋のような建物ではあるが、あの二羽にしてみたら十分快適なねぐらなのかもしれない。元からいた一羽も、もうガラスにぶつかろうともせず、ちょんちょんと飛び跳ねている。
私は腕を組んだ。
あんなところでも、住めば都、ということか。そう思わせる存在が身近にいればいい、ということか。まあ良かったじゃないか。
何か釈然としない思いを抱きながらも、私は窓辺を離れ、仕事も忙しくなったので、ムクドリのことは忘れてしまった。
ところが、これで事は終わらなかった。
翌朝、事務所の鍵を開けて中に入り、暖房を入れてから窓辺に近づいてみて唖然とした。
昨日のムクドリが、また窓にぶち当たっているではないか。しかも一羽で。昨日より元気がないように見えるが、飛んではぶつかって落ち、また飛び上がる、の繰り返しは同じである。私はほとんど憤慨に近い感情を覚えた。どういうことだ。もう一羽は、去っていったのか。だとすれば、なぜお前は残ったのだ。
私は想像した。ひょっとして、後から来た一羽は、ここから出ようと奴を説得したのだが、奴の方からその誘いを断ったのではないか。頑迷だから。現状を打開するのに別なルートがある、ということをついに理解できなかったから。だが、この閉塞した環境も決して愉快なわけではなく、やっぱり脱出したくて、だからこうやってガラスにぶつかり続けているのではないか。
なんと愚かな存在なのだ。お前は。
あまりに頭に来たので、私は事務所を出て道路を渡り、向かいの建物に入った。入るのは初めてである。チラシが埃と同じ色になって床に散らばっている。建物全体から妙な臭いがする。セメントの階段を上がってみたが、やはり正面の吹き抜けの部屋に辿り着くことはできなかった。最初からわかっていたことだ。あの愚かな鳥を救うことはしょせん無理なのだ。
私は一人きりの事務所に戻った。
ストーブの上で薬缶が湯気を立てる。それでも寒いので、私は外套を着たままパソコンに向かっている。
あれから、向かいの建物はなるべく見ないようにしている。何だか、自分を見ているような気がしてどうにも嫌なのだ。
ムクドリはあそこでいつか死ぬだろう。仲間は助けに来ないだろう。
死骸を誰が片付けるんだろうな、と、そんなことを思った。
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