品川は雨であった。街は涙に濡れた頬のように薄汚く熱を帯びて見えた。熱っぽく見えたのは、夏が近かったからかも知れない。
ショッピングモールに隣接した照明の足りないだだっ広いレストランで、私は独りで休日の不味い食事を摂っていた。ナポリタンは魚を焼いた臭いがした。
「だからさ、だから、あいつは大学時代から最低だったのよ」
「うん、ほんと近づかない方がいいよ、レナ。彼、すごいやさしい顔して嘘つくからね」
先ほどから、私は斜め向かいの席の女性二人の会話が気になって仕方がない。どうやら共通の知人である男性に対する非難、誹謗(ひぼう)の会らしい。
「ほんとにほんと、最低よ。シホに土下座して謝るべきよ」
「今さら謝られても・・・。もう謝りに会いに来るって言っても嫌。レナ、ねえ、彼には近づかない方が身のためよ」
非難、誹謗の会にしては、話は同じようなところを循環している。
最低だと繰り返すのは、一見して大金を動かすキャリアウーマンである。豊かな髪をさらに豊かに見せるために肩の上で広げている。猛禽類のような目が情熱的に煌めいている。
近寄るなとばかり彼女に助言している女性は、長い髪をぺたりと頭に貼り付け、細面に小さな目をしばたたいている。喫茶店のウエイトレスでもしていそうである。
二人とも休日に着る服の趣味は一致しているらしく、緩やかな更紗のついたワンピースである。
「大丈夫よ、シホ。私があいつに会うのは、ぎゃふんと言わしてやるためよ。あの鷲鼻をトンカチで叩いて平べったくしてやるのよ」
二人とも笑った。吐き捨てるような笑いであった。
「まあレナ、それはさすがに止めてあげて。彼、自分の鼻が高いのをひそかに自慢に思ってるんだから」
「だから傲慢なのよ。シホ、あんたがそんなに優しいから、あいつもつけ上がって、別れてすぐに、私に電話寄越したり平気でするんじゃない」
沈黙が彼女たちのテーブルに落ちた。
私はナポリタンを丸めているのも忘れて、彼女たちの様子を伺った。レナと呼ばれるキャリアウーマンは明らかに失言したらしい。
しかし彼女には失言を失言としない力がある。顔を紅潮させながらも、彼女は友人の視線が自分から外れたのをしっかりと観察していた。
「あんたほんとに別れるの」強い口調である。
「うん。別れる。もうこりごりよ」
「鷲鼻にゲンコツをヒットさせずに別れるの」
笑顔がシホに戻った。「だってもうどうでもいいもん」
「そうね。でも、私わかるけど、あいつ、私と会って、シホへの取り成しをお願いするつもりよ。私わかるの。電話でも、すっごく暗い声で、後悔している風なことを言ってたわ。でもね」
レナは紅茶をせっかちに啜って言葉を続けた。
「でも、私は取り成してあげないの。あんたのためだから。あいつみたいなエロ男は、許されると思ったらすぐまたつけ上がるのよ。あんたがすぐ別れ話を切り出したのは正解。かっこいいわ。あいつすっごく動揺してたから、電話で。私会ってあげても、彼の相談に乗ってあげるためじゃないのよ。土下座して頼まれても取り成してあげないわ。あんたのためだし、あいつのためよ。あんなやつ、一回ぺしゃんこにしてやらなきゃ駄目よ」
「鷲鼻をね」
「そう、鷲鼻を」
二人はまたけらけら笑い合った。
「ちょっとごめんね」
レナは笑顔のままそう言って席を立った。
彼女が友人に背を向け、私の前を通ってトイレに向かうときである。弱い照明と窓の外の雨模様で翳ってはいたが、彼女の顔が恐ろしく強張っているのに、私は驚かされた。大きな目だけがやたら光を帯びていた。
彼女の去った後、私は気になってテーブルに残るシホの表情をちらりと伺った。
私はそこに認めた。眉間に皺を寄せてペーパータオルを千切れるまで捻(ねじ)る、髪の長い彼女の姿を。固く捻れた白紙をじっと見つめる彼女の暗い視線には、妖気さえ感じられた。
私は思わずフォークを皿に置いた。
やがてレナがトイレから戻ってきて、二人はまた親友の笑顔を交わした。
「私、トイレに行ってる間に、もっと効果的な方法を思いついたの」
「なにそれ」
「あいつ絶対げんなりしているはずだからさ、それに花粉症じゃない、あいつ。あいつと会ったら、あの鷲鼻を指差して、『あなた、鼻をかみ過ぎたの?』って言ってやるの」
二人は仲良く爆笑した。
私はナポリタンを半分残したまま立ち上がった。傘の持ってきていないことに気づきながらも、私は店を出ると、コートのポケットに両手を突っ込み、肩をすぼめて、雨の降る交差点へと歩を向けた。
~・~・~・~・~・~・~・~・~
これは、漱石の言葉についてのぱんださんの記事を読んで、触発されて書いたものである。ぱんださん、心に抱える爆弾というものを、私はざっとこんな風なものとして解釈します。
ショッピングモールに隣接した照明の足りないだだっ広いレストランで、私は独りで休日の不味い食事を摂っていた。ナポリタンは魚を焼いた臭いがした。
「だからさ、だから、あいつは大学時代から最低だったのよ」
「うん、ほんと近づかない方がいいよ、レナ。彼、すごいやさしい顔して嘘つくからね」
先ほどから、私は斜め向かいの席の女性二人の会話が気になって仕方がない。どうやら共通の知人である男性に対する非難、誹謗(ひぼう)の会らしい。
「ほんとにほんと、最低よ。シホに土下座して謝るべきよ」
「今さら謝られても・・・。もう謝りに会いに来るって言っても嫌。レナ、ねえ、彼には近づかない方が身のためよ」
非難、誹謗の会にしては、話は同じようなところを循環している。
最低だと繰り返すのは、一見して大金を動かすキャリアウーマンである。豊かな髪をさらに豊かに見せるために肩の上で広げている。猛禽類のような目が情熱的に煌めいている。
近寄るなとばかり彼女に助言している女性は、長い髪をぺたりと頭に貼り付け、細面に小さな目をしばたたいている。喫茶店のウエイトレスでもしていそうである。
二人とも休日に着る服の趣味は一致しているらしく、緩やかな更紗のついたワンピースである。
「大丈夫よ、シホ。私があいつに会うのは、ぎゃふんと言わしてやるためよ。あの鷲鼻をトンカチで叩いて平べったくしてやるのよ」
二人とも笑った。吐き捨てるような笑いであった。
「まあレナ、それはさすがに止めてあげて。彼、自分の鼻が高いのをひそかに自慢に思ってるんだから」
「だから傲慢なのよ。シホ、あんたがそんなに優しいから、あいつもつけ上がって、別れてすぐに、私に電話寄越したり平気でするんじゃない」
沈黙が彼女たちのテーブルに落ちた。
私はナポリタンを丸めているのも忘れて、彼女たちの様子を伺った。レナと呼ばれるキャリアウーマンは明らかに失言したらしい。
しかし彼女には失言を失言としない力がある。顔を紅潮させながらも、彼女は友人の視線が自分から外れたのをしっかりと観察していた。
「あんたほんとに別れるの」強い口調である。
「うん。別れる。もうこりごりよ」
「鷲鼻にゲンコツをヒットさせずに別れるの」
笑顔がシホに戻った。「だってもうどうでもいいもん」
「そうね。でも、私わかるけど、あいつ、私と会って、シホへの取り成しをお願いするつもりよ。私わかるの。電話でも、すっごく暗い声で、後悔している風なことを言ってたわ。でもね」
レナは紅茶をせっかちに啜って言葉を続けた。
「でも、私は取り成してあげないの。あんたのためだから。あいつみたいなエロ男は、許されると思ったらすぐまたつけ上がるのよ。あんたがすぐ別れ話を切り出したのは正解。かっこいいわ。あいつすっごく動揺してたから、電話で。私会ってあげても、彼の相談に乗ってあげるためじゃないのよ。土下座して頼まれても取り成してあげないわ。あんたのためだし、あいつのためよ。あんなやつ、一回ぺしゃんこにしてやらなきゃ駄目よ」
「鷲鼻をね」
「そう、鷲鼻を」
二人はまたけらけら笑い合った。
「ちょっとごめんね」
レナは笑顔のままそう言って席を立った。
彼女が友人に背を向け、私の前を通ってトイレに向かうときである。弱い照明と窓の外の雨模様で翳ってはいたが、彼女の顔が恐ろしく強張っているのに、私は驚かされた。大きな目だけがやたら光を帯びていた。
彼女の去った後、私は気になってテーブルに残るシホの表情をちらりと伺った。
私はそこに認めた。眉間に皺を寄せてペーパータオルを千切れるまで捻(ねじ)る、髪の長い彼女の姿を。固く捻れた白紙をじっと見つめる彼女の暗い視線には、妖気さえ感じられた。
私は思わずフォークを皿に置いた。
やがてレナがトイレから戻ってきて、二人はまた親友の笑顔を交わした。
「私、トイレに行ってる間に、もっと効果的な方法を思いついたの」
「なにそれ」
「あいつ絶対げんなりしているはずだからさ、それに花粉症じゃない、あいつ。あいつと会ったら、あの鷲鼻を指差して、『あなた、鼻をかみ過ぎたの?』って言ってやるの」
二人は仲良く爆笑した。
私はナポリタンを半分残したまま立ち上がった。傘の持ってきていないことに気づきながらも、私は店を出ると、コートのポケットに両手を突っ込み、肩をすぼめて、雨の降る交差点へと歩を向けた。
~・~・~・~・~・~・~・~・~
これは、漱石の言葉についてのぱんださんの記事を読んで、触発されて書いたものである。ぱんださん、心に抱える爆弾というものを、私はざっとこんな風なものとして解釈します。
な、なんと、Hpに紹介させていただいた漱石の
言葉をもとに短編小説を書かれるとは!
しかも、朝投稿したのに、昼には完成している・・
恐れ入りました。
「心に抱える爆弾」って妙に気になる言葉ですよね。
時間をかけて色々考えてみたいと思いますが、
私としては「常に自分のこととしてとらえる」を
モットーとしております。
ではまた寄せて頂きますね。
今日は本当に有難うございました!!!
(追伸:ところで「た・たむ!」ってどういう意味
なのでしょうか?この言葉も妙に気になるのですが・・)
「た・たむ!」とは、特に意味はありません。小太鼓のリズミカルな音を連想してつけました。そう言えば、むかし「ら・た・たむ」とか何とかいう絵本があって、大層気に入ってましたから、その潜在的な影響かも知れません。「たむ」と口に出して言うときの、口の開き方、閉じ方が好きです。