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田んぼアート

2016年09月08日 | essay

  田んぼアートというものがある。色の違う稲を植えて絵を作る。それを少し離れた高いところから眺める。マスゲームの植物版みたいなものだが、設計図次第ではかなり精巧な絵ができる。

  ぜひ一度見てみろと、とある知人に勧められた私の知人に誘われた形で、つまりかなり間接的な動機ではあるが、車を走らせて梓川まで見てきた。おりしもまつもと大歌舞伎があり、それを記念した歌舞伎の演目の田んぼアートが見られるという。

  三百円を払い展望台に登ってみると、なるほど新聞の写真で見た通りの絵が広がっている。なかなかに見事である。四、五分ほど水田を眺めてから展望台を降りた。

  帰路、少々微妙な気分になった。

  確かに、「なかなかに見事」であった。だがこの言葉がなかなかに曲者(くせもの)である。期待して見るとこんなものかと拍子抜けするが、あまり期待せずに見ると、お、意外とすごいじゃないかと感動する。そういう危うい位置にあるのが、「なかなかに見事」である。そしてその類のものは、よく観察すると巷(ちまた)に溢れている。

  情緒ある町並み、おいしいお店、おしゃれな服、面白い小咄(こばなし)。これらは概して、あまり期待し過ぎるとその期待値のせいで物足らなさを感じてしまう。怖いことである。人間もそうかも知れない。ほどほどの期待値で付き合うほうが、がっくり来ることが少ない。

  田んぼアートは確かに見事である。ただし、あくまでも日常にぽっと出た異質さ、という点で見事である。青一色の水田地帯に、突如出現した遊び心あふれる大仕掛けだから、素敵なのだ。ふと通りかかった人が、な、な、なんなんだこれは!とびっくりするから素敵なのだ。問題は、そういう素敵さを、この資本主義社会はすべからく集客と収益の物差しで測ろうとする。そうすると、見物人も「客」として来て損得勘定で見物して帰っていく。「ああ、これなら三百円の価値があった」「いやなかった」と。

  高度に磨かれた芸術作品などは別として、世の中にあるのは「なかなか見事」なものが主流である。それらは見る側の気構え次第で、期待以上にも期待外れにもなりうる。願わくば、おお、なかなか、と、その都度感動を覚えたいものである。

  そのためには、あまり宣伝や前評判に踊らされないことだろう。

  写真を撮ってくればよかったが、カメラを忘れた。負け惜しみを言えば、それくらいがちょうどよいのだ、この話の流れでは。

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