一週間ぶりにパソコンを開くことができると、多弁を恐れる。私はクリスマスの翌日の子どものように、いろんな出来事を誰かにしゃべりたくてうずうずしているのだ。
何があるわけでもなく、何を期待するわけでもない、私はすでに平均化された大人だと言うのに。
・・・・・・・・・・・・・
街外れで柿の木に出会った。窓を閉め切った車の中から見えたのだが、次の交差点で青信号を待つ間、私はハンドルに腕を乗せたまま古い思い出を手繰っていた。
私は小学時代の大半を田舎の長い通学路で費やした。そこには何でもあった。堰止めすべき用水路。蹴るべき小石や空き缶。振り回すべき枯れ枝。「かじっぽ」と呼ばれた、茎を噛むと酸味の口に溢れる雑草。白詰草。紫詰草。民家の柿の木。
柿の木。われわれ子どもは秋を迎えると、誰からともなく、片道4キロに及ぶ通学路に面した民家の柿の木をすべて「征服」しなければいけない、という使命に一様に汚染されていった。下校のたびに、幼い「盗人」たちは新たな柿の木に挑戦しないではいられなかった。不幸かそれが世の習いか、ほとんどが干し柿用の渋柿であったので、われわれ幼い盗人たちは当然ながら、略奪した柿を齧る毎にこの世の終わりのような渋面を作らなければならなかった。
それでもたゆまぬ幼い盗賊団は、木枯らしが吹くころには通学路のほとんど全域を踏破していた。
最後まで未踏のまま残された柿の木が一本あった。不思議な雰囲気を路上にまで振りまく一軒家で、母親と知的障害者の娘の二人暮しの家庭であった。二人とも汚い服を着て、太って、笑ったことがなかった。
「あのうちの柿の木だけ残すわけにはいかんよ」
「でもなんかばっちくない?」
子どもらしい独断と偏見に満ちた会話をしながら、われわれはその家へと向かった。誰もが心に躊躇いを感じていたが、誰も自分から臆病者のレッテルをもらうわけにはいかないと思っていた。われわれ数名は日本海側の秋らしい曇天の夕刻、その家の雑草に溢れた庭先に侵入した。
耳をつんざくような叫び声に皆が慌てて踝を返したのは、庭に足を踏み入れた直後だったように記憶する。
娘が窓からほとんど機関銃のような意味のない咆哮を上げていた。誰もが真っ青な顔で転ぶように庭を飛び出した。娘の顔が見えなくなるほど遠くへ駆け逃げるまで、生きた心地がしなかった。それほど娘の叫びは常軌を逸していた。
悪いことを、ひどいことをしたのだ。深い思慮もなく自責の念に駆られたのは、あのときが最初だったかも知れない。自分たちは庭の雑草を踏みにじるように何かを踏みにじった、ということを確信していたが、何を踏みにじったかははっきり自覚しないまま、あの出来事を忘れてしまったように思う。
気がつけば、私はハンドルに腕を乗せたまま青信号を見つめていた。後続の車がクラクションを鳴らす前に、私は慌ててギアを動かしアクセルを踏んだ。あの日から、自分はさほど成長していない。
何があるわけでもなく、何を期待するわけでもない、私はすでに平均化された大人だと言うのに。
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街外れで柿の木に出会った。窓を閉め切った車の中から見えたのだが、次の交差点で青信号を待つ間、私はハンドルに腕を乗せたまま古い思い出を手繰っていた。
私は小学時代の大半を田舎の長い通学路で費やした。そこには何でもあった。堰止めすべき用水路。蹴るべき小石や空き缶。振り回すべき枯れ枝。「かじっぽ」と呼ばれた、茎を噛むと酸味の口に溢れる雑草。白詰草。紫詰草。民家の柿の木。
柿の木。われわれ子どもは秋を迎えると、誰からともなく、片道4キロに及ぶ通学路に面した民家の柿の木をすべて「征服」しなければいけない、という使命に一様に汚染されていった。下校のたびに、幼い「盗人」たちは新たな柿の木に挑戦しないではいられなかった。不幸かそれが世の習いか、ほとんどが干し柿用の渋柿であったので、われわれ幼い盗人たちは当然ながら、略奪した柿を齧る毎にこの世の終わりのような渋面を作らなければならなかった。
それでもたゆまぬ幼い盗賊団は、木枯らしが吹くころには通学路のほとんど全域を踏破していた。
最後まで未踏のまま残された柿の木が一本あった。不思議な雰囲気を路上にまで振りまく一軒家で、母親と知的障害者の娘の二人暮しの家庭であった。二人とも汚い服を着て、太って、笑ったことがなかった。
「あのうちの柿の木だけ残すわけにはいかんよ」
「でもなんかばっちくない?」
子どもらしい独断と偏見に満ちた会話をしながら、われわれはその家へと向かった。誰もが心に躊躇いを感じていたが、誰も自分から臆病者のレッテルをもらうわけにはいかないと思っていた。われわれ数名は日本海側の秋らしい曇天の夕刻、その家の雑草に溢れた庭先に侵入した。
耳をつんざくような叫び声に皆が慌てて踝を返したのは、庭に足を踏み入れた直後だったように記憶する。
娘が窓からほとんど機関銃のような意味のない咆哮を上げていた。誰もが真っ青な顔で転ぶように庭を飛び出した。娘の顔が見えなくなるほど遠くへ駆け逃げるまで、生きた心地がしなかった。それほど娘の叫びは常軌を逸していた。
悪いことを、ひどいことをしたのだ。深い思慮もなく自責の念に駆られたのは、あのときが最初だったかも知れない。自分たちは庭の雑草を踏みにじるように何かを踏みにじった、ということを確信していたが、何を踏みにじったかははっきり自覚しないまま、あの出来事を忘れてしまったように思う。
気がつけば、私はハンドルに腕を乗せたまま青信号を見つめていた。後続の車がクラクションを鳴らす前に、私は慌ててギアを動かしアクセルを踏んだ。あの日から、自分はさほど成長していない。
いつかあなたにしてやられないようなものが書けたらと、思っています。
あなたには、してやられました。
畜生!
もっと物語そのものに集中したいのに!書き手から読み手に解釈を求められているような圧迫を感じるのかもしれません。
読み手の居場所がなくなって窮屈な気がするというか。
いわゆる世の名作は際限なく読み手を物語に引っ張ってくれる気がするのです。読み手に居場所を与えてくれる気がするのです。
わたしは書きません。書かないのにえらそうにすみませんでした。
柿木のお話、とても好きですよ。
どうも貴女には良く思われてないようですね。貴女に「酔っている」と言われたら「酔っている」としましょう。「キザ」と言われたら「キザ」としましょう。それが「自分の書いた物に対する」私の一貫した姿勢なのですが(もちろんその他の自分へ向けられた批評に対しては違います)、しかし、それを言明すればするほどあなたに嫌われそうです。
ううん。
なるべく貴女の真意を汲み取る方向で再考してみましょう。
絵を描く人が、美しい絵を描こうとするように、私も「美しい」書きものをしたいという心積もりはあります。それがみあさんの指摘される「キザ」なのかもしれません。心積もりが成功していない点が、「キザ」なのかも知れません。心積もりがそもそもまったく見当外れなのかもしれません。
私は自分の書いたものに満足していません。不味い文章だと思っています。だからみあさんの再々のご指摘は、繰り返しますが、その都度なるほどと思ってお聞きしているのです。
ただ、それでも。
それでも貴女には嫌われそうな気がします。いや嫌われるだろうなとほぼ確信しています。そうなると、今度は貴女のその感情の出所が気になります。いったい、何がそんなに貴女の気に障ったのだろうと思います(単なる無視もできたのです)。それは何か、私が書いたものの主題に関わることのような気がしてなりません。違うでしょうか?何らかご自身のご経験に基づくものですか?
貴女がこの場で表明しようとされているものの本質が、まだ私には見えていないようです。
(そうだ、ふと思いましたが貴女も何か書かれているのですか。)
自分に酔ってかっこつけないと生きられないって
正直キツイです。
物語は美しくて、ひかれますが、読むほうも酔わないと読めない文章ってなんか苦しいのですが。
あたしだけ?
なまいきで、すみません。
それでも書くことが好きな人は書き続けるのですよね。その気持ちは、わかります。
「変わっていない自分に酔っている」ですか・・・ううん、もう一度私の書いたものを読み直し、紅茶を入れて再度読み直してみましたが、よくわかりません。解釈はご自由ですので、それで構わないのだろうとも思います。
自分に酔う・・・。それがもしパンドラの箱の隅の「希望」のようなものだとしたら、私にとって生きるということは、案外自分に酔う事かも知れません。
変わってない自分に酔ってるのでしょう?