た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

無計画な死をめぐる冒険 114

2008年05月11日 | 連続物語
 唐島の饒舌に眉を顰めているのは私だけではない。
 「もろもろの要因と言われましたけど。宇津木さんを死に追いやったものって何ですか」
 「何だろう。ところで、君は宇津木君が死ねばいいと思ったことがあるかね」
 「ありません。あるわけないでしょう。し、失礼です」
 動揺する藤岡を唐島は横目で見据える。
 「失礼だったなあ。しかし思ったことが一度や二度、人間だったらあると思うんだがね」
 「ありません」
 「彼はどうして死んだんだろうね」
 藤岡はもはや最大限に不機嫌である。「もしかして酔ってるんですか」
 「酔ってはないよ。少々二日酔いだがね。昨日は、宇津木君の叔父さんという人にビールから焼酎からいろいろ勧められて参った。いつまでここに立たせておく気かねえ」
 読経に木魚が混じり始めた。鐘の音も随所に入る。念仏はいよいよ佳境である。
 藤岡はじっと腕を組んで足元を見つめていたが、決意したように顔を上げた。
 「あの人には、あ、愛が足らなかったんですよ」
 隣はすでに全然違うことを考えていたらしい。返答にはしばらく間があった。「ん?」
 「愛です。周りに対する愛が足らなかったんです」
 「愛」
 「だからこんなことになったと、私は思います。も、もちろん言い過ぎですけど」
 「愛、かね」
 「愛、です。人間愛です」
 「ほお。昨日聞いた話では、彼の方こそ周りから愛されていないと思い込んでいたらしいがね」
 「自分が誰も愛せないからです」
 「誰も愛せなかったのかね」
 「知りません」
 「知らないって、君」
 「わ、私には、そう見えただけです」
 唐島はひたいを指で掻いた。「そうかも知れんな。昨日もそんな話で盛り上がったような気もする。愛かあ。君にはあるのかね」
 「当たり前でしょう」
 「そういや君のところに、笛森って名前の事務員がいたことはなかったっけ」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 115

2008年05月11日 | 連続物語
 唐島という男は元来、他人と会話ができない。昨日通夜の席でそれなりに会話が成立していたのは、初対面の大裕叔父に対する緊張感あってのことであろう。親しき仲では暴走目に余りある。自分をよほど上等と見なしているのか、周りを下等と見なしているのか、気の赴くまま突拍子もないことを言い出して平気である。今もとりわけ突拍子もない話題を出してきた。
 私は人知れず身を固くした。
 しかしそれ以上に、藤岡の反応が意外であった。笛森、の名を聞くやいなや、彼の顔から血の気が引いた。
 「笛森、ですか」
 「うん。いたろう」
 「いましたけど」
 「やっぱりね。ピンと来たんだ。まだいるの」
 「三年くらい前に辞めました。な、なん、なんでまた、その名前を」
 「今どうしてるの」
 「御存じないでしょうが、一昨年の暮れに亡くなったんです。交通事故で」
 ひたいを掻いていた唐島の手が止まった。「死んだのか」
 「だからなんでまたその名前が出てくるんです」
 「いや、やっぱり昨日小耳に挟んだことだがね。笛森っていう名前の女子学生が二ヶ月前にこの家を訪ねてきたらしいんだよ。しかも仏さんの留守中に、ね」
 人参皮むき器の刃の部分のように平べったい藤岡の唇の端が震えたのを、私は見逃さなかった。顔面神経痛というのだろうか、緊張したときの彼の癖である。彼は何か言おうと口を開いたが、結局、開いた口から言葉は出てこなかった。アナウンスが流れてきたのである。
 「続いてお焼香に移らせていただきます。御遺族、御親族の方々は前方にございます焼香台までお進みください。一般の方は後方にございます焼香台に順にお進みください」
 読経はいつの間にか終わっていた。

(つづきますよ)
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無計画な死をめぐる冒険 116

2008年05月11日 | 連続物語
 春の日差しはうららかである。忌中の屋根はその光を受け入れない。庭にはたんぽぽの綿毛が飛んでいる。忌中の壁はその風も通さない。手向けの紫煙が立ち昇るのは、一方で、その屋根と壁とが逃がさない。
 坊主たちが再び何やら唱え始めたのは、焼香用のお経であろう。たとえ彼らが晩飯に食べたい料理の品目を唱えていても、誰にも気付かれまい。もちろん読経に熱心に耳を傾ける篤信家などいない。参列者の目下の関心は焼香の順番をスムーズに回すことにしかない。とにかく早く済ませようと心に決めている。ぞろぞろと無気力に列を成すところはどこか炊き出しの行列を思わせる。作法など望むべくもない。香を頭に押し頂く奴もいれば、押し頂かない奴もいる。どちらが正式なのか、実は私もわからない。ただ、手の埃を払い落とすように両手を擦り合わせた男子学生などは、明らかに誤りとわかる。あ奴留年させてやればよかった。香炉の上で指を擦りながら一粒の香も落ちてこない者もいた。そもそも摘んでいないのである。妹の由紀子に至っては、何を思ったか香を手の平に広げて匂いを嗅いだ。そして背後に並んでいた、今朝日本に着いたばかりの夫のジョージに向かって、これがお香よとばかりに手の平を見せ、それからようやく香炉の上で払い落とした。焼香もワインの試飲会程度に考えているのであろう。読経が、間の抜けた韻律でもって、彼らの無作法を水に流す。ああ、満足した死を迎えたければ、自分の葬式だけは見るものではない。

 異変が起きたのは、焼香も終わりに近づいた頃であった。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 117

2008年05月11日 | 連続物語
 ざわめきは最初、降り始めた雨脚のようにひそやかに点在した。大仁田がまず反応を示した。トカゲの尻尾の眉を吊り上げ、美咲の背後から素早く耳打ちする。美咲の肩がこわばった。藤岡がひっと喉を鳴らした。大学関係者がひそひそ話を始めた。何も知らない者も、空気の異変にうつむくのを止めた。皆が皆の背後から訪れた一点に視線を注いだ。その一点はゆっくりと一般用の香炉台に近づいていった。女である。若い女。
 私はその横顔に吸い寄せられた。電気椅子にかかったように、私は硬直した。私は自分の目が信じられなかった。まさか。私は心に二度叫んだ。まさか。その場にいた誰よりも、私こそが最も驚きおののいたと告白する。
 雪音。私は声にならない声を漏らした。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 118

2008年05月11日 | 連続物語
 雪音。私は声にならない声を漏らした。
 焼印のように脳裏に消し難く残る、白く美しい横顔。まさにそのものが、焼香台へと静かに歩み寄りつつあった。凛として小高い鼻梁。亡霊か?・・・しかし私自身が亡霊である。憂いを湛える二重まぶた。幻覚?・・・しかし見えているのは私だけではない。瞳の色は、譬えれば深い森に人知れず眠る蒼き湖。では・・・では、なぜ彼女が私の葬儀に参列するのか? ああ、首筋から顎にかけた完璧な稜線。清楚に、柔らかく。裂いて血潮を覗きたいほどに。まるで、まるで今しがた開いたばかりの百合の花。いや!・・・よく見よ。雪音ではない。雪音はこの女ほど若くはなかった。頬の肉付きも微妙に違う。今目の前にいるのは、まだ私の会ったことのない、二十歳前後の瑞々しさ溢れ出る雪音である。しかし、小柄な体つきといい、少し前のめりな歩き方といい────何より、目線がそっくりである。あの、砂漠の地で一人夜明けを迎えるような、哀しみの果てまで見据えた遠い目線が────笛森雪音を片鱗にでも知る者ならば、この若い女と、一昨年の暮れ車に轢かれて死んだ女との間に、どうして濃い血の繋がりを連想せずにいられよう。 
 香に煙る長机の前で、若い女は歩を止めた。
 可能性が示唆するのは、雪音の実娘である。そうならば、悪魔よ笑え! 私は私の愛した女の秘密を何一つ知らなかったことになる。彼女は私に嘘をつき通したまま死んだことになる。いや、嘘をついた訳ではない。子どもがいるなんてことを言わなかった代わりに、いないとも言わなかった。そういう話題は我々の間で上らなかった。私は彼女を婚期を過ぎつつある孤独の女と見なし、そういうものとして彼女を弄び、そこに一抹の疑いも差し挟むことはなかった。
 おそらく私は、あの燃えるような日々でさえ、片時たりとも雪音の愛を独占することはなかったのだ。私は口に蓋をした女を抱擁していたのだ。その証が、今、焼香台の前に立ち、私の棺桶を見つめながら手を合わせる。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 119

2008年05月11日 | 連続物語
 能発一念喜愛心
 不断煩悩得涅槃

 私は透明人間である。この女の顔を確かめるのに何の気兼ねも要らない。あと一歩、踏み出せばよい。それなのに小さな喪服の背中ばかり見つめながら逡巡したのはなぜか。あり得ないことであるが、私は、彼女が雪音であって欲しかった。雪音でなければ確かめない方がよいとまで思っていた。不可能への希望が私の足を止めたのだ。何とかこの女が雪音であるようにはならないか。あの寒い冬の朝、私の生涯最も愛した女は、タイヤの下敷きになどならず、内臓も脳髄も飛び出さず、今でも元気にここにこうして合掌している────そうならば、もし万が一にでもそうならば、何だか、私までが蘇えることのできるような心地がした。


(少しずつですが続きます)
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無計画な死をめぐる冒険 120

2008年05月11日 | 連続物語
 もちろん、彼女は雪音ではない。雪音であるはずがない。
 謎の女は焼香を終え、左脇に退くために横顔を見せた。
 その横顔がさらに廻った。何かの気配を感じ取ったのか。正面の顔をこちらに見せる。おかげで死者との違いがはっきり見えた。眉が違う。より強い意志を持っている。ひたいが違う。輝くほどに若い。死者の面影を色濃く宿しながら、明確に別人である。そしてこちら側をじっと見ている。全体彼女は何を見つめているのか? 
 手を口に当てて息を呑む。二重まぶたの瞳が大きく見開く。白い顔が一層白くなった。
 間違いない。彼女は、私を見つめている。
 読経までもが止んだ。
 彼女には見えるのだ。昨日の美咲と同様。私は素早く妻に目を走らせたが、妻の視線は式場中のすべての視線と同様、この若い女に注がれていて、私に気付いている様子がない。今、私の姿が見えるのは、雪音に瓜二つの、この未知の女だけらしい。
 凍りつくほどの静寂の中、彼女はよろめいた。


(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 121

2008年05月11日 | 連続物語
 倒れそうになる身体を必死で持ちこたえながら、その目はなお私から離れない。表情には、驚愕以上に覚悟がある。彼女は、見ようとして私を見ている。
 絞り出すようにか細い声。
 「私を捕まえに来たの?」
 誠に私を混乱させる問いである。
 相手のいない女のつぶやきに周囲がざわめく。
 「そうだ」
 私は答えた。考える前に。どうしてこんな返答を、それも聞こえるはずのない相手にしたのか皆目見当がつかない。私はただ、返答したかっただけなのだ。言葉を交わしたかっただけと言ってもいい。私が彼女を捕まえに来ただと? もちろん私の無音の声に対し、現世の人間たちの誰一人として反応を返す者はなかった。目の前の若い女を除いては。
 彼女の見開いた目がさらに大きくなった。ひきつけを起こしたように息を呑む。顔が歪む。頬に当てた両手の指が、死に絶える前の蜘蛛の脚のように痙攣する。
 私の受けた衝撃とて、一様のものではない。どうして驚かずにいられようか?
 この女は、私の声まで聞こえている。
 嫌。と、興奮した表情とは不釣合いに低い声が彼女の口から漏れた。直後に、地震が起きたように大きな音がした。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 122

2008年05月11日 | 連続物語
 容赦ない衝突音であった。後退る彼女の背に押されて、長机の焼香台が倒れたのだ。香炉が割れる音もそれに重なった。白い灰煙が立ち昇る。胡桃のような禿頭をした僧侶が唸った。参列者から女性の甲高い叫び声が上がった。焼香台が倒れた震動で、飾られていた私の遺影がずり落ちた。供え物の林檎に当たり、遺影のガラスが割れた。人々は皆立ち上がった。
 地獄絵図であった。私の葬式は台無しにされた。
 「また幽霊?」「何だよ幽霊ってたつ公、何だよ幽霊って」
 「邦広、てめえ何のつもりだ」とこれは大裕叔父。
 「奥さん見えますか」「いえ。見たくもないわ」
 周囲の喧騒が注目の人を我に返らせた。彼女は床に膝を突いていたが、起き上がると矢のように駆け出した。逃げるつもりである。
 私はその背中を追った。肉体なき身にはいとも容易なことである。だが何がどうなっているのか皆目分からなかった。
 私が、彼女を捕まえに来ただと? 
 混乱する思考の中でも、彼女の放った一言は深海に眠る沈没船のように微動だにせず私の心を冷やした。その台詞が意味するところは唯一つのはずである。
 彼女は障子を開け放った。誰かの首を落とすような軽快な音がした。
 一方で、この、私の感情は何だ。幸福に満ち溢れるかのような高揚感は何だ。私はどうして「そうだ」と即答したのか。
 まるで、まるで恋しい人に恋しい気持ちを問われたときのように。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 123

2008年05月11日 | 連続物語
 彼女を追って部屋を出る刹那、私は背後を振り返った。私の葬式の見納めである。割れた香炉から立ち昇る灰が未だ静まらない。黒服たちは皆、木偶の坊のように突っ立っていた。意外なことに、最も青褪めた顔をしていたのは、藤岡であった。
 女は靴も履かず不幸の家を飛び出した。
 春のうららかな日差しが逃走者を迎え入れる。
 黒いタイツで、彼女は小鹿のように踏み石を駆け抜ける。必死である。受付の者は唖然として声も掛けられない。彼女が門を出たとき、脇から突如男が現れ、彼女の肩を掴んだ。大きな背中に威圧的な鷲鼻。五岐警部である。
 「危ない。車に轢かれますよ。ところで、あなたは笛森志穂さんですね」
 名前を呼ばれた女は反射的に身を振りほどこうとした。警部はさらにしっかりと細い二の腕を掴む。行き交う人が眉を顰める。
 街のどこかでクラクションが鳴った。

(つづく)
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