(上と下)1978(昭和53)年11月1日発行の岩手県東磐井郡東山町の「町制20周年記念誌・ひがしやま」に掲載されている当時の東北開発(株)岩手セメント工場(現・三菱マテリアル岩手工場)の写真と「東山町のおいたち」についての文章。
2014年7月25日(金)、東山公民館(館長・鈴木勝市)、田河津公民館、松川公民館、石と賢治のミュージアム:主催の「昭和26年度 東山ふるさと歴史講座」の第3回(一関市の研修バスと徒歩による現地学習)”歩いてみよう今泉街道~山目宿から長坂宿へ”(9:00~15:00時)が行われました。講師は東山支所教育文化課 畠山篤雄氏。
(下)旧道を下りてきて「石と賢治のミュージアム」に着きました。ここで昼食休憩です。
(上)「現在地」から研修バスに乗って出発です。「停車場線」を200m位進むとJR大船渡線の踏切があり、「第一今泉街道踏切」と表示されていました。その先100mほどで「県道花泉東山線」に合流です。
(上)歴史の道・今泉街道は、「現在地」で停車場線に重なり、宮沢賢治ゆかりの東北タンカル工場の間を通ってJR大船渡線を横断(「今泉街道第1踏切」)して県道花泉東山線と交叉してその右側を進み、再び前・県道と合流して「石宇川」と呼ばれていた山谷川に架かる境橋に至っていました。ここが江戸時代の松川村と長坂村(現在は共に一関市東山町)との境だったそうです。当時の橋は現在地より約4~5m上方に架けられていたそうです。
境橋を越えて長坂(村)に入った旧道は岩手セメント工場の敷地をかすめて進み、その先は前・県道と重なって「長坂宿」に入っていたそうです。現在「今泉街道」と呼ばれている県道19号(一関大東)線は、旧道とは全く重なっていないようです。
長坂村風土記御用書上(安永4年)には次のように記されているそうです。
1.当村長坂町宿場有之、壱丁四拾弐間御座候処、他村江之宿次里数。左ニ御書上仕候事
1.西岩井郡山ノ目町江拾九里壱丁五拾間 1.本馬 八拾八文、1.軽尻 五拾八文、1.賃夫 四拾四文(略)
1.当郡摺沢町江八里三丁 1.本馬 三拾六文、1.軽尻 拾四文、1.賃夫 拾八文
1.当郡松川町江七里 1.本馬 弐拾九文、1.軽尻 壱九文、1.賃夫 拾五文 以上六ケ所、何モ里数小道を以御書上仕候事
このように、長坂宿は旧道における主要な宿駅の一つとして位置しており、そのためここからは(イ)「江刺郡黒石町江之道」、(ロ)「当郡(東磐井郡、以下同じ)母躰町江之道」、(ハ)当郡猿沢町江之道」、(ニ)当郡摺沢町江之道」、(ホ)「当郡松川町江之道」、(へ)西岩井山ノ目町江之道」の六筋の道が分岐している。このうちの(ニ)(ホ)(ヘ)の道筋が旧道にあたるが、特に(ニ)には次の七カ所の坂が記載されている。「①風呂坂 長弐丁、②五輪坂 長三拾間、③折ノ坂 長壱丁、④寺坂 長弐拾間、⑤大萱坂 長五拾間、⑥6荒井瀬坂 長壱丁、⑦高金坂 長四拾五間」。
(上)「長坂宿」の町裏には熊野神社があり、ここは村の鎮守であった。「安永風土記」には次のように記されているそうです。
1.村鎮守熊野社
1. 小名 坊
1.勧請 葛西御家臣当村御城主千葉刑部少輔様御勧請被成、熊野山万福寺と申別当御座候由申伝候処、右年月〇別当所跡共ニ相知不申候事
1.社地 南北拾八間、東西六間
1.社 南向弐間作<./p>
1.別当 当村羽黒派千葉院
祭日 九月九日 右御祭礼之節為警固、大原御足軽弐人被相付候事
この神社の境内には明和3年(1766)の庚申塔、寛政5年(1793)の石灯籠のほか、文化・文政・天保などの石碑が多くある。