2014年8月7日(木)、東山公民館(館長・鈴木勝市)、田河津公民館、松川公民館、石と賢治のミュージアム:主催の「昭和26年度 東山ふるさと歴史講座」の第4回(一関市の研修バスと徒歩による現地学習)”歩いてみよう今泉街道~長坂宿から摺沢宿へ”(9:00~15:00時)が行われました。講師は東山支所教育文化課 畠山篤雄氏。
(その5)は、現在の「今泉街道」である県道19号(一関大東)線に出てから砂鉄川に架かる里前橋の手前左側にある曹洞宗滝沢山善龍寺まで歩きました。この道は旧・今泉街道とは全く違う所を走っています。旧・今泉街道は、下の地図の赤い線のように通っていたそうです。
?桃の木洞入口の道標、?愛宕神社祭り場の古碑、?五輪坂上の古碑群、?千葉院の古碑、?館合道路傍の碑、?西館址、?東館址、?滝沢山善龍寺、?火産霊(ほむすび)神社。
(上)旧・県道から現在の県道に出て、曹洞宗滝沢山善龍寺まで約250mほどを歩きました。(下2つ)砂鉄川に架かる里前橋(最近架け替えられたもの)。
(上)県道の直ぐ左側に善龍寺の駐車場があります。私たちが乗るバスが待っていました。
(上と下)善龍寺の駐車場から新しい道がつくられていました。工事のためだけではなさそうです。
(下8つ)山門の階段前に植栽されているキキョウ(桔梗)が、花を沢山咲かせていました。
キキョウ(桔梗) キキョウ科 キキョウ属 Platycodon grandiflorus
別名:キチコウ、オカトトキ、バルーンフラワー。東アジア原産の多年草。日本の山野にも自生し、野趣を楽しむ花として庭などにも植えられている。鐘形(しょうけい)で、先が浅く5裂して星形に開く花を咲かせる。蕾が膨らんだ形が風船のようなので、英名はバルーンフラワー。花期:6~9月。
栽培管理:風通しの良い、半日以上日が当たる場所で育てる。一通り花が終わったら、半分くらいに切り戻すと、2番花が見られる。タネ播き:4月、植え付け、株分け:3月と10月。[西東社発行「色・季節でひける花の事典820種」より]
https://app.blog.ocn.ne.jp/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=40729427&blog_id=82331 [peaの植物図鑑: 一関市我が家のキキョウ(桔梗)2012年7月26日(木)]
(上)善龍寺のすぐ下にある民家の前の砂鉄川の岸辺に「大清水(おおすず)」と呼ばれている清水があります。(下)
(上と下)杉の大木の下辺りから湧き出ている大清水。昔、出羽三山にお参りする人がこの泉で清めてから出かけたと言い伝えられています。「昭和の名水100選」(昭和59年度環境庁選定)や「いわての名水20選」(昭和60年岩手県剪定)に選ばれています。
http://www.geocities.jp/freedon1_5/meisui/ohshizu.htm [大清水(おおすず)]
「長坂村風土記御用書出」(安永4年)には、下記の通り記載されています。(安永4年は1775年)名水 2つ : 寺下大清水、大木大清水。右は、名水と申すには御座無候共、2ケ所共、岩間より湧出、川の如く流申候に付、古来より大清水と唱来候間、御書き上げ仕候事。
http://blog.goo.ne.jp/pea2005/d/20100130 [peaの植物図鑑:一関市東山町・砂鉄川のオオハクチヨウ(大白鳥)]
https://app.blog.ocn.ne.jp/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=40629780&blog_id=82331 [peaの植物図鑑:一関市東山町「長坂村寺下大清水」&バイカモ(梅花藻) 2012年7月11日(水) ]
(下2つ)芭蕉句碑:文政11年(1828)と刻されている高さ210㎝、幅54㎝の句碑。この句碑は上部の約3分の1が折れていたものをこの寺の住職が修理結合したもので、「さざれ蟹足這上るしみづ哉 芭蕉」と刻まれています。これは当寺18世玄端代の文政11年(1828)に、この地を訪ねた江戸の俳人松風の首唱によって近郷の俳人達が相寄って建立したものとのこと。
(下)現在も東山町で俳句を楽しんでいる人たちの句碑。
(下)この碑でしょうか?「元禄8年(1695)の南無阿弥陀仏碑」というのは(高さ100㎝、幅45㎝)。この碑は東山町長坂地内の有年号の石碑のうちで最古のものだそうです。
滝沢山善龍寺(ぜんりゅうじ):東山町長坂字里前 曹洞宗 文明11年(1479)、稗貫郡(ひえぬきぐん)松山邑(現在の石鳥谷(いしどりや)町)萬畳山大興寺の七世。恵照禅師周鼎中易(しゅうていちゅうえき)大和尚が、この寺を開山した。
恵照禅師は現在の愛知県の人で、性海寺や竜源寺、天沢院等を開山し、さらに現在の静岡の大洞院の輪番住職や、愛知の乾坤院四世を勤めるなど、東海地方に周鼎派と称する一派を広め、更に奥州を行脚して、宮城県の竜源寺(葛西氏菩提所)を再興し、次いで前記岩手の大興寺の再興に尽力し、大興寺七世の住持となって善龍地を開いた。
恵照禅師は、弘法大師の作と伝えられる釈迦如来像と、聖徳太子の作と伝えられる阿弥陀如来像を持参して開山したが、釈迦に如来像は大正末期の無住時代に、行方がわからなくなってしまったという。しかし明治・大正年間の度々の無住時代や明治6年より30数年も小学校々舎として使用されたことを思うと、貴重な仏像がよくこれ程無事で残っていたものだと感ぜざるを得ない。その後、新しく本尊として釈迦牟尼仏を迎え、旧本尊と共に奉安されている。
この外、現存する仏像には、慈覚大師作と言われる不動尊像、廻国仏信徒が納めたという阿弥陀如来坐像、開祖道元禅師木像、達磨大師像、大権修理菩薩像などがある。
堂宇はその後正保(しょうほう)3年(1646)に改築し、その秋落慶法要を行ったのであるが、現在の本堂(間口14.12メートル、奥行10.60メートル)は、約170年後の文政2年(1819)に建てられたものである。
また、当寺18世玄端代の文政11年(1828)に、東都の俳人松風の下に近隣の俳人相寄って建立した芭蕉の句碑が境内にある。[熊谷印刷出版部発行、岩手県文化財愛護協会編(小野寺一郎、水城 勲、畠山喜一:共著)「東山町の歴史」&岩手県東磐井郡東山町(町長・菅原喜重郎)発行、東山町史編纂委員会・編纂「東山町史」(昭和55年11月発行)より]