peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

「東北初の腑分け」蘭医・佐々木中沢の墓 2015年10月5日(月)

2015年10月13日 | 史跡、名所、

2015年10月5日(月)、長泉寺(一関市萩荘字館下40)にある江戸時代の一関藩医・佐々木中沢(名は知芳、字は仲蘭、号は蘭嵎)の墓を訪ねました。

(上)右から2番目の石碑が佐々木中沢の墓碑で、後ろには妻の墓も。

院号戒名は「迎春院蘭嵎芳大徳」。中沢は上黒沢村(一関市萩荘)片平屋敷に生まれ、三代目建部清庵に学び、豊吉の腑分け(解剖)に臨んでいます。

文化12年(1815)江戸に遊学し(芝蘭堂に入門)。郷土出身の大先輩磐水について和蘭医学の治術を勉強する。また、儒学も学び佐藤一斉、葛西因是、安積良斎ら江戸にあって高名な学者とも交友し、大槻玄沢に西洋外科を学び、のち師の大槻玄沢らの推挙もあり帰藩して一関藩医となりました。

文政5年(1822)に仙台藩医学館で新設の和蘭医科の初代医学助教授となり、助教授3年を勤めたのち、一関で実施された師の玄沢、建部清庵らと共に東北初の腑分け(解剖)に参加。その後仙台では単独で女性の遺体解剖を行ない、見事な執刀技術をみせました。その後依願退職し、自ら町医者となり治療活動に専念、評判もすこぶるよく治療を求める外来患者が門の外に待つほどの町内に聞こえた名医だたそうです。

また、経史、詩史から書画までも卓越した人物だったらしいが、弘化3年57歳で没しました。学研面では、シーボルト門下一といわれた高野長英(水沢出身)と一緒に学ぶこともあったが、長英には勉強では負けたことがなかったと、一関の実家に送った手紙に書き記しているほどの頑張り屋だったようです。[佐藤三郎・編集・執筆「ふるさと春模様~萩野荘余情」ほかより]

(上)佐々木中沢の墓碑は、本堂から200mほど離れた場所にありました。 

(下4つ)一関市指定天然記念物カヤの木がありました。


一関市萩荘「長泉寺」のユウゼンギク(友禅菊) 2015年10月5日(月)

2015年10月13日 | 植物図鑑

2015年10月5日(月)、長泉寺(一関市萩荘字館下40)にある江戸時代の一関藩医・佐々木中沢(名は知芳、字は仲蘭、号は蘭嵎)の墓を訪ねました。山門の前から本堂に行ける車道沿いに作られた花壇に植栽されているユウゼンギク(友禅菊)が、紫色の花を沢山咲かせていました。

 ユウゼンギク(友禅菊)キク科 アスター(シオン)属 Aster novi-belgii

 別名:ニューヨークアスター、宿根アスター。北アメリカ原産の耐寒性多年草。園芸品種が多く、草丈は20~200㎝まで様々で、花径2~3㎝の小さな小ギクのような花を枝いっぱいに咲かせる。丈夫で、花色も赤、白、ピンク、青、紫と豊富。花期:6~9月。和名は友禅染のように美しい花を咲かせるキクという意味で、ユウゼンノギクともいう。

管理:春に市販の苗を求めて、夏に西日が裂けられる日なたに植える。日当たりと風通しのよい場所に置き、鉢土の表面が白く乾いたらたっぷり水やりする。花が終わった茎は地際から切る。6月の半ばくらいまでに1、2回摘心すると、花がぎっしりと咲く。生育旺盛なので庭植えは2年に1回、鉢植えは毎年株分けをして植え替えるとよい。[西東社発行「知りたい花の名前がわかる花の事典」&同「色・季節でひける花の事典820種」より]


一関市萩荘「長泉寺」のシロクジャク(白孔雀) 2015年10月5日(月)

2015年10月13日 | 植物図鑑

2015年10月5日(月)、長泉寺(一関市萩荘字館下40)にある江戸時代の一関藩医・佐々木中沢(名は知芳、字は仲蘭、号は蘭嵎)の墓を訪ねました。山門の前に植栽されている白孔雀アスター(シロクジャク)が、花を沢山咲かせていました。

 クジャク(孔雀)アスター キク科 アスター(シオン)属 Aster

北アメリカ原産の耐寒性多年草から改良された草花。シロクジャク、シンクジャクなどの園芸品種が切り花用に栽培されている。茎は細く、束になって1m以上にも育ち、秋に花をつける。別名:クジャクソウ、宿根アスター。北アメリカ原産のシロクジャク(白孔雀)やユウゼンギク(友禅菊)などの交配種で、青紫やピンク、藤色などの園芸品種がつくられています。春に地際から沢山の茎を伸ばします。よく分枝する枝の先に小花が群れて咲きます。花期:9~10月。

管理:日当たりと水はけがよければ、よく花が咲きます。草丈が伸びて困るときは、初夏に切り戻すと、倒れずに花が咲きます。植え付け、株分け:9~10月、3~4月。[山と渓谷社発行「山渓ポケット図鑑3・秋の花」&西東社発行「色・季節でひける花の事典820種」より]


一関市厳美町「若神子亭」のクサモミジ(草紅葉) 2015年10月5日(月)

2015年10月13日 | 植物図鑑

2015年10月5日(月)、骨寺村荘園交流館「若神子亭」(わかみこてい:一関市厳美町字若神子241-2)に立ち寄りました。この建物の入口付近にある畑で栽培されているナンブイチロウカボチャ(南部一郎南瓜)を写して車に戻ろうとしていた時、休耕田と思われる田圃にびっしりと生えている雑草が真っ赤に紅葉しているのが目に入りました。とても綺麗に見えました。

 

 


一関市萩荘の霜後の滝(そうごのたき)を観る! 2015年10月5日(月)

2015年10月13日 | 史跡、名所、

2015年10月5日(月)、一関市萩荘霜後地区にある霜後の滝を見に行ってきました。滝は前日の大雨の名残で水量豊富で見応えがありました。妻は60年ほども前に来たことがあるあると言っていましたが、周辺は幾らか整備されているものの、景色は余り変わっていないようでした。

(上と下)入口の「水と花とふれあい(霜後の滝)公園」の案内板。

(上と下)久保川に架かるもみじ橋。

(上と下2つ)もみじ橋から久保川の下流を見た風景。ここにも段差の低い滝がある。

(下3つ)もみじ橋の上流にも段差の低い滝があった。

 

(下4つ)ここにも段差の低い滝(ひめ小滝)があった。

(上)霜後の滝と社の由来説明板:この滝は郷土史などによると、約871年前(大治3年)1128年 高舘城主、藤原基衡公がこの地をご遊覧になり、狩りや酒宴を楽しまれ、その時土地の者を呼び「これよりこの滝を霜後の滝と呼ぶべし」と仰せになり、以来この地を霜後と言うようになったと記されている。又、320年ほど前(天和2年1682年)一関藩主、田村右京太夫建顕公が鷹狩りの折りこの滝をお気に召され、以後13代の永きに亘り、狩りや、きのこ狩り、滝を眺めながらの酒宴など、度々訪れた土地の人達もその時はみんなでお仕えしたと伝えられている。

神社建顕公が、下総の国(茨城県)鹿島宮の分霊を祭り、滝大明神として崇敬された。現在151年前(弘化4年、1847年)奉納の、のぼり旗と141年前(安政4年、1857年)奉納の旗が現在も保存されている。特に弘化4年の旗は達古袋達古家第11代法印、常覚読源光の筆によるもので、当時まれに見る達筆と評されている。のちに田村公は、滝の絵を画工に描かせて日野大納言弘資卿、三神守氏公のご高覧に供し、お歌をのぞまれた。その詩に詠まれた歌が今に伝えられている。

●日野大納言弘資卿御歌●

霜の後の滝とはむべも 岩かねや さかえあらわす 松も こそあれ

山?の?れる錦のたえまより ながれて落ちる 霜の後の滝

●三神守氏公の御歌●

霜の後に 名を得し昔白波の 今もくだけて おつる滝つぼ

       平成10年 霜後里まちづくり委員会

(上と下2つ)「霜後の滝ご覧場」から眺めた霜後の滝:迫力がありません。

 (上)少し奥に滝壺に降りる道が作られていました。手摺がついていたので降りてみました。やはり迫力がありました。折角行ったのであれば、滝壺まで下りてみることをお勧めします。