2015年10月5日(月)、長泉寺(一関市萩荘字館下40)にある江戸時代の一関藩医・佐々木中沢(名は知芳、字は仲蘭、号は蘭嵎)の墓を訪ねました。
(上)右から2番目の石碑が佐々木中沢の墓碑で、後ろには妻の墓も。
院号戒名は「迎春院蘭嵎芳大徳」。中沢は上黒沢村(一関市萩荘)片平屋敷に生まれ、三代目建部清庵に学び、豊吉の腑分け(解剖)に臨んでいます。
文化12年(1815)江戸に遊学し(芝蘭堂に入門)。郷土出身の大先輩磐水について和蘭医学の治術を勉強する。また、儒学も学び佐藤一斉、葛西因是、安積良斎ら江戸にあって高名な学者とも交友し、大槻玄沢に西洋外科を学び、のち師の大槻玄沢らの推挙もあり帰藩して一関藩医となりました。
文政5年(1822)に仙台藩医学館で新設の和蘭医科の初代医学助教授となり、助教授3年を勤めたのち、一関で実施された師の玄沢、建部清庵らと共に東北初の腑分け(解剖)に参加。その後仙台では単独で女性の遺体解剖を行ない、見事な執刀技術をみせました。その後依願退職し、自ら町医者となり治療活動に専念、評判もすこぶるよく治療を求める外来患者が門の外に待つほどの町内に聞こえた名医だたそうです。
また、経史、詩史から書画までも卓越した人物だったらしいが、弘化3年57歳で没しました。学研面では、シーボルト門下一といわれた高野長英(水沢出身)と一緒に学ぶこともあったが、長英には勉強では負けたことがなかったと、一関の実家に送った手紙に書き記しているほどの頑張り屋だったようです。[佐藤三郎・編集・執筆「ふるさと春模様~萩野荘余情」ほかより]
(上)佐々木中沢の墓碑は、本堂から200mほど離れた場所にありました。
(下4つ)一関市指定天然記念物のカヤの木がありました。