2015年11月25日(水)、一関市在住の作家・及川和男氏(82歳)が、地元であった戊辰戦争をテーマにした歴史小説『戊辰幻影 みゆき口伝』(れんが書房新社発行、1,080円、B6サイズ、125ページ、2015年10月1日初版発行)を発行したので読んでみました。
この小説は、副題に「みゆき口伝」とあるように、著者の祖母の「みゆき」が、息子の正雄(著者の父親)と娘さとの2人に、家族や親戚らの来歴を語り聞かせる”口伝”の体裁を取っているが、登場する人は、全て実在の人物で、実名だという。著者が生後4カ月の頃、「みゆき」(祖母)は脳卒中で倒れ、63歳で亡くなっているので、著者には祖母の記憶がないことから、みゆきの話は、著者が両親(正雄、トヨ)から伝え聞いた内容がもとになっているという。
本書でみゆきは戊辰戦争(1868~1869年)に出征した夫の父親・盛(著者の曽祖父)の最期を次の通り語っている。「盛様が敵の銃弾に倒れたあと、すぐ近くにいた三番隊の小五郎様(この人は、高平小五郎で、明治維新後外務省に入り、外務次官、駐米公使となり、明治38年=1905年の日露戦争のポーツマス講和会議では全権委員として主席全権の小村寿太郎を補佐した。また、明治41年=1908年の日露戦争後の太平洋方面や清国における日米の妥協をはかった高平・ルート協定の締結に尽力した外交官である。この戦に甲3番隊の銃士として15歳で従軍し、9月15日の刈和野の激戦で右上腕を負傷した。)が、盛様を引きずって、近くの百姓家の小屋さ連れ込んで手当てして下さったけど、もう命(めい)を落としていなさった。」(三、戦のあと)。140年以上も前の戦闘が生々しく描写されているのは、口伝や史料、著者の父親が残した回想記などに取材し、作家ならではの表現力で再構成したからであろう。
続いて、夫の盛が戦死したため24歳で寡婦となり、5つと2つと生まれたばかりの乳呑児(3人)をかかえて生きなければならなかった妻あやの境遇に思いをはせる。家には盛様の母と妹がおり、一家の柱を失った痛手の中で、廃藩後の苦難の生活に耐えていかなければならなかった様子を語る。武士階級が没落して先が見えない中、商店で働いたり、家庭教師をしたりして家計を支えるみゆきさんの苦労を描写。はやり病や大水害などで家族や親族を失いながらも、幼い子供たちを懸命に育てる姿が胸をうつ。あやが育てた2男1女の名前は、もと、虎太郎、仙次郎。後に虎太郎の妻となったみゆき自身も大変な苦労をした。苦学がたたってか、虎太郎も幼い子どもたちを残して亡くなってしまうのだ。
著者の及川さんは「歴史研究書で事実を学ぶことも大事だが、そこに生きた人の喜びや悲しみ、苦しみを伝えることは文学でしかできない。一関には同じような苦難の私史が沢山あるはずなので、地元の人にぜひ読んでほしい」と延べている。[2015年10月18日(日)付「岩手日報(郷土の本棚)」&2015年11月24日付「岩手日日」より]
奥羽における戊辰戦争(ぼしんせんそう)の最後の戦争であった秋田戦争に参戦
一関藩は、慶応4年(1868)、仙台藩に従って「奥羽越列藩同盟」に加盟し、新政府との戦争に参戦した。この時期の軍事行動としては、列藩同盟成立前の同年4月、会津征討を新政府から命ぜられた本藩に従軍した白石(しろいし)出兵があるが、本格的な戦闘は8月からの「秋田戦争」従軍であった。
慶応4年(1868)8月5日の正午、須川岳(栗駒山)に集結した一関藩軍は藩境を越えて秋田藩に侵攻した。列藩同盟を脱退し新政府側に立った秋田藩を、同盟側が攻撃したのに同調しての行動であった。秋田には、南から庄内(鶴岡)・仙台、東からは仙台・一関・盛岡の各藩が侵攻した。一関藩は、庄内・仙台藩とともに、戦闘を繰り返しながら、横手・大曲を経て久保田(秋田)を目指し進軍した。9月12日からの刈和野(仙北郡西仙北町)攻防戦は、秋田来援の薩摩藩軍との交戦となり、庄内藩軍とともに奮戦し、占領・退却・再占領と、5日間にわたる激戦となった。しかし、すでに同盟の柱であった米沢藩は降伏し仙台藩も降伏が決定的という情報がもたらされ、16日、全軍一関へ撤退した。
刈和野攻防戦は激戦であっただけに、地元にも戦いをめぐる伝承が残されている。故老が祖父母から聞いた話として語り継いでいる。
雄物川を泳いで渡り、川から上がり際に首を切られた兵士が多かったという。噴水のように噴き上がる血が遠目にも鮮烈だったという。同盟軍側が撃つ小銃弾はヒョーンヒョーンと鳴って飛んできたという。施条銃から放たれた、椎の実型で底のくぼんだミニエー弾である。昭和30年代頃までは、刈和野の家中屋敷の庭からよくこの弾が掘り出されたという。このミニエー弾の実物は岩手県立博物館に、模造品が一関市博物館にそれぞれ展示されている。
一関藩では、記録上、265名(銃卒・軍夫含めず)が従軍し、84名が戦死、33名が負傷した。戦死者中50名が銃卒(各村から従軍した百姓身分の兵)であった。
明治22年(1889)に至り、刈和野での戦死者を仮埋葬した同所の本念寺に、全戦死者84名の姓名を刻した墓碑が建立された。また、墓の建立に先立ち、明治13年(1880)には一関の祥雲寺境内に戦死者の招魂碑が建立されている。いずれも多くの人々の義捐金(ぎえんきん)によって建てられたものであった。[「一関市博物館常設展示図録」1997(平成9)年10月10日発行&一関市博物館発行「田村家文書を読む」より]
(上左)祥雲寺境内。