2017年8月27日(日)、えさし郷土文化館(奥州市江刺区岩谷堂字小名丸102-1)主催の「相原康二
館長のツキイチ講座」が開かれる日なので、江刺区岩谷堂に行きました。この日は、近くにある館山
史跡公園の岩谷堂城址&館山八幡神社、二清院を数年ぶりに見学してきました。頂上部の平地に沢山植
栽されているセイヨウアジサイ(西洋紫陽花)が、未だ少しだけ綺麗な花を咲かせていました。
(上)藤原御館跡について:この地は古来御館山とよばれ、平安時代末期、藤原経清とその子藤原清衡
父子の居住した砦館の跡とも伝えられ、大規模な土塁や城砦の遺構と掘の一部が現存している。経清は
百足退治の伝説で知られる田原ノ藤太秀郷子孫といわれ、陸奥の国司に従って奥州に下り、初の宮城県
亘理地方を支配して亘理権大夫と呼ばれたが、後に俘囚の長と言われた大豪族安倍頼時の娘婿となって
江刺郡に移り住み、この地で清衡が生まれた。
経清は、安倍氏征討のための「前九年の役」が始まると、初め朝廷軍の源頼義に従ったが、中途から妻
の父である安倍頼時に味方して、源頼義、義家父子と出羽の清原武則の連合軍と戦い、厨川の柵で敗死し、
経清の妻は清衡を伴って、敵将清衡武貞に再嫁した。後に清原氏の内紛から起こった「後三年の役」で清
衡は源義家の援けを得て勝ち残り、生誕のこの地に戻って奥六郡の主となった。康和年中(1099年頃)、
清衡は江刺郡豊田館から平泉へ居を移した。昭和58年、岩手県埋蔵文化財センターがこの地を発掘した際、
平安時代の住居跡が発見されている。江刺市
(上と下)館山八幡神社
(上)八幡神社の傍にある銀杏の巨樹
(上と下)藤原経清、清衡公の木造を安置した二清院。